小説の問題「風に舞った花びらが水面をうがつように」中島たい子と益田ミリと佐藤正午

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「問題小説」(徳間書店)連載のBOOKSTAGEページから旧稿を発掘する「小説の問題」、今回は2008年3月号だ。

 連載でマンガを扱うことは珍しかったのだが、この回では益田ミリの『結婚しなくていいですか。』を扱っている。4コマを連ねることによって長篇の話になるという作品で、人物の感情描写に関心を持って、この技巧を文章で説明できないか、と考えたのが出発点だろうと思う。益田ミリはまだ知るぞ知るという作家で、今ほどは連載の数も多くなかったはずだ。タイトルは村下孝蔵「初恋」から。この曲、三田寛子がカヴァーしていて、ベスト盤だけどCDも持っている。

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風に舞った花びらが水面をうがつように

%e6%bc%a2%e6%96%b9%e5%b0%8f%e8%aa%ac 唐突にお聞きしますが、あなたの足りない部分は何ですか? それはね、と苦笑いしつつ答えていただけるか、そんなこと判るわけがないじゃん、と口を尖らされてしまうか。前者は年配の方に、後者は若い方に多い反応なのではないか。

これは質問が悪いのである。「自分の足りない部分」が自分で判るなら誰も苦労はしない。判らないからこそ大変な思いをして暮らしているのである。自分の足りない部分について答えていただける方というのは人生経験が豊富なんだね。「本当のところは判らないけど、こういうかな」と自分を客観視して考えられるわけだ。そんな愚問に正解はない、というのが本当の答えである。だから答えを拒否して拗ねてしまった人は、正しい。

みんな、自分が完全じゃないという思いを抱きながら、でもどこが完全じゃないか判らず、もやもやと生きている。そのことへの拘りが悲喜劇を産み、小説の題材になる。模範的な例が、このたび文庫化された中島たい子のデビュー作『漢方小説』だ。中島は本書で第二十八回すばる文学賞を受賞し、第百三十二回芥川賞の候補にもなった。

主人公川波みのりは三十一歳で独身、仕事は脚本家だ。昔の男が結婚すると知った日を境に、彼女は体調を崩してしまう。どんどん痩せ衰えていくのに、何遍病院に足を運んでも原因は判らない。困り果てたみのりは、昔かかったことがある漢方医院に最後の望みを託す。通い始めのころは半信半疑だったが、若先生に心を惹かれて足を運ぶうちに、彼女の身体には変化が起きていくのだ。

川波みのりは完全じゃない。病気なんですからね。作者は、鮮やかな場面を描いて彼女の異変を読者に印象づける。何度目かの通院をして原因不明のまま帰されたみのりが「生命力にあふれた芋の葉が道まではみだしていて」いる「畑沿いの道をとぼとぼ歩いて帰って」いく風景だ。病人と芋の葉の対比がいいですね。

作者の中島たい子は主人公と同じ脚本家出身で、こういう絵になる場面を考えるのが巧い。フレーズにもいいのがあります。漢方理論を知ったみのりは、西洋医学流の実験科学精神からすると完全に間違った解釈なのに「つじつまがきれいにあって」いることに驚く。

――積み木の箱があって、本来はお手本どおりに入れていかないと積み木は全て箱に納まらないはずなのに、子供が自分流に入れていったら偶然きれいに納まってしまった、という感じ。

この一文が『漢方小説』という作品のテーマを的確に表している。大げさに言えば、漢方理論という新しい解釈に出遭った主人公が、この世界を、違った目で見直す小説なのですね。そうした視野を得ることによって、彼女は「自分はどうしたいのか」という真意に気づく。

「自分はどうしたいのか判らない」人が、自分が本当はどうしたいのか気づく小説、とまとめると小ぢんまりしてしまうかな。『漢方小説』に弱点があるとすれば、このまとまりの良さだろう。川波みのりが自分を脅かしているものの正体に気づく百三十一ページ以降の展開に、意地悪い読み手ならば必ず茶々を入れる。そんなに主人公を楽にしてしまっていいの、と。でも「文学として」なんて小難しいことを考えなければ、この展開は正解だ。だって、すっとするものね。性格喜劇としては正しい「しめ」である。くさくさしている読者の気分を晴らす、処方箋になるじゃありませんか。

中島はこうしたもぞもぞした憂さを書くのが抜群に巧い作家である。近作『この人と結婚するかも』(集英社)も、恋愛下手な男女の気持ちを描いた、クスリと微笑まされる作品だ。不全感という厄介な病気に悩まされている読者は一度この人の作品を試してみるといいですよ。

%e7%b5%90%e5%a9%9a%e3%81%97%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%81%a6%e3%81%84%e3%81%84%e3%81%a7%e3%81%99%e3%81%8bここで新刊の話を。ひさびさにコミックをご紹介したい。イラストレーター・益田ミリの『結婚しなくていいですか。』(元ネタは竹下景子か)の主人公は、カフェ店長の、すーちゃんという女性だ。『すーちゃん』(幻冬舎)という作品の続篇だが、こちらから読んでも問題ない。

ここ数年、エッセイ風のコミックがたいへん人気を得ている。だが『結婚しなくていいですか。』はそうしたエッセイマンガとは少し違った行き方をしている。主人公が作者の完全な分身ではなく、ストーリーにきちんと計算された脈絡がある、というのが最大の違いだ。

作中には何気ない感じで日常の切片が散りばめられている。読めば間違いなく「そうそう」と共感してしまうだろう。「アイロンをかけている自分を誰かに見て欲しいと思った」というキャプションがついた一コマなど、そうでしょう。すーちゃんが「ちゃんとしてる気がするなー」と呟いている。そうそう。洗濯物にアイロンをかけるたびに思うよね。

三十代半ばで独身のすーちゃんは、故郷の母親からかかってくる電話も彼氏のことから貯金のことに変わってきた。ふと「老後」という言葉が目の前にちらつき「遺書」を書いてみようか、などと思い立つのである。仕事は楽しく「自分の時間を/自分の好きなように使える楽しさ/大人になってやっと手にいれたんだから/もう/失うのはイヤ」と考えている。しかし、ふとしたはずみに(セルフサービスのうどん店で丼を覗きながら)孤独を感じることもある。

すーちゃんの旧友であるさわ子さんの日常が、並行して描かれていく。彼女も独身で、母親と認知症で寝たきりらしい祖母との三人暮らしである。ある日、友人に男性を紹介されたさわ子さんは、急に結婚を意識しだす。そして自分が家を出てしまうと母が一人ぼっちになると考え、道端で子猫を拾って帰るのだ。

この作品は一ページに四コマ二列を配して描かれており、益田はその中でストップモーションをよく使う。主人公が一人でコマに描かれ、カメラが微妙な接近と後退を繰り返すような按配で、その胸像が少しずつ大きくなったり小さくなったりするのである。気持ちの揺れがそれによって表現されている。すーちゃんたちは同僚との会話の最中にもふっとストップモーションに入ることがあり、それによって周囲の人々との気持ちの食い違いが浮き彫りにされる。二人とも人には言えない屈託を抱えており、その原因が自分の中にあることも自覚している。

益田は、二人の日常を描きながら少しずつ読者に手のうちを明かしていく。「風に舞った花びらが水面を穿つように」というのは、故・村下孝蔵の名曲「初恋」の一節だ。花弁の一触によって水面が抉られるほどの静かな動きで、少しずつその下にあるものが姿を現してくる。終盤の五ページで、それはすっかり明らかになる。百二十四ページで二回のストップモーションが使われているのは、明らかに計算の結果だろう。それまでに撒かれてきたエピソードの一つ一つがすべて意味を持ち、読者の胸を衝くのである。

なんと、これは優れたミステリーの手法ではないか。この作品で作者は、人生の大問題に解答を出そうなどという大それたことには挑んでいない。しかし、その語り方で何事かを示してみせているのである。何かが日常の雑事を通じて静かに、静かに浮上してくる。それはある日、突然ぽっかりと水面に顔を出すのだ。そういう風にしか捕まえられないものがあることを本書から私は学んだ。

%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%80%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%88もう一冊の新刊、佐藤正午『アンダーレポート』は、小説だけが持つ、瞬間の記憶を永遠にとどめる作用の力を知る作者が書いた、過去の記憶の物語である。

人は誰でも、どうしようもない不全感を抱えている。そして、その不全感は小説を読んでも別に解決されない。

身も蓋もないが、これは真実だ。小説は別に万能薬ではないから、それ自体では何もできない。読んだ人がどう受け止めるか、が大切なのだ。だから小説は「何を」よりも「どう書くか」ということにいちばん意味がある。その一つの解が「風に舞った花びらが水面を穿つように」書くことだ。すべてが明らかになることなど、現実にはありえない。真実は瞬間に、しかも僥倖のようにしか現れないものなのだ。佐藤はその瞬間を書く。

実に安心ができない小説である。物語の冒頭で、主人公・古堀徹が地方検察庁に検察事務官として勤務する、中年男性であることが明かされる。彼はある日、東京都品川区旗の台のカフェにやってくる。経営者の女性に十五年前の真実について訊ねるためだ。古堀が過去の記憶を元に組み立てた物語が果たして現実に起きたことなのかどうか。答えを知っているのはその女性しかいないのだという。

古堀が話しかけている女性の名前が明かされないことから判るとおり、読者は最初五里霧中の状態に置かれる。十五年前におきたのが、女性が金属バットで男性を撲殺した事件であると知らされるのは第一章の最後だ。続く第二章では、その十五年前の出来事の光景が映し出される。しかしそれも古堀徹の「物語」であることが、章の終わりで明かされる。

それが古堀の想像ではなく、現実に接地した事実なのだという保証が与えられるのは第三章だ。村里ちあきという十九歳の女性が古堀の元にやって来る。十五年前、村里ちあきの母親は彼女にある嘘をついた。ちあきは、そのことが事件になんらかの関わりを持っているのではないかと考え、古堀を訪ねてきたのだ。過去において二人の過去は交わっていた。

こうして少しずつ「事件」の概要が明かされていく。読者の興を削がない程度に書くが、そこにはドメスティック・バイオレンスという痛ましい社会問題が横たわっている。過去においては、DVは家庭内で解決すべき事態とされ、今ほど問題視されることもなかった。

古堀が事件の中で果たしていた(あるいは果たしていなかった)役割も判ってくる。彼は文字通りの「信用できない語り手」で、第七章では一部の読者に顔を背けられるようなこともやってのける。決して高潔な存在ではないのだ。では、なぜ彼は「物語」を補完しようとして動き続けるのか。おそらく第三章で彼が「私自身の平凡な物語はほとんど完結している」と述懐していることに関わりがあるのだろう。終わってしまった物語の主として彼が空白を抱えており、そこを満たすものに飢えていたという可能性は否定できない。そう思えば、事件を追及する彼の行動はひどく利己的なものに見えてくるのだ。

確かなもの、信頼できるもののないままに物語は進行していく。物語後半で示される推理は、ミステリー的な興趣に満ちたものだ(オリジナルのアイデアではないが、先行きがまったく見えなかった物語がそこに行き着いたことに意味がある)。しかしそこに謎が解決されたことの喜びは何一つないのである。いくつもの偶然の積み重ねからある犯行を決意した人間がいて、やはり偶然の連続からその事件に対する妄執を抱いてしまった人物がいる。真相解明という名目で両者は一時だけつながりを持つが、それはあくまで瞬間の関係にすぎない。真実は一瞬だけ過去の古層を破って閃くが、すぐにまた水面下へと消えていく。この小説は、真実が人々を結びつける絆などではないことを読者に強く認識させるのである。

(初出:「問題小説」2008年3月号)

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