杉江の読書 bookaholic認定2016年度翻訳ミステリー第6位 ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』(藤井光訳/新潮クレスト・ブックス)

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 過去の記述から小説は始まる。主要な登場人物の一人であるネルソンがまだ幼なく、その父母の視点を借りなければいけないような過去だ。1980 年代のそのときをネルソンの父親は「不安な日々」と呼ぶ。舞台となっている名前の記されない国で、内線が起きていた時代なのだ。そのころ、ヘンリーという名の劇作家がディシエンブレという名の小さな劇団を結成した。だが彼は後に逮捕され、収監されてしまう。それから十数年の年月が過ぎ、2001 年の3月にネルソンは再始動したディシェンブレのオーディションを受ける。出獄後は隠遁していたヘンリーと古参団員のパタラルガ、そしてネルソンが地方の街を巡業して歩くことになるのだ。

1980年代の混乱と新生ディシェンブレが2001年に行った巡業という二つの過去へ、語り手は頻繁に溯ろうとする。語り手の一人称〈僕〉は日本語版では7ページめで初めて記されるのだが、しばらくは正体不明のままである。読み進めていくうちに本書が、インタビューに対して関係者たちが答えた内容を〈僕〉が構成した、という形式の小説であることも判ってくるのに、肝腎の彼の意図は明かされないままである。この宙吊り状態がたまらないのである。名も知らされない国の辺境を旅して回る一座と、その軌跡を踏査して回る影のような記述者の物語は月の明るい夜のような静けさに満ちている。ただしその均衡は、終盤において破られることになるだろう。

『夜、僕らは輪になって歩く』は2007年に『ロスト・シティ・レディオ』でデビューした作者が、長い空白の後に発表した第二作である。題名は、刑務所の庭で囚人たちが小さな輪を作って歩きながらひそひそ話し合い「ここではないどこか」にいる自分を夢想しようとする姿から採られている。記憶以外のほとんどを遮断し、心を閉ざしている人たちの象徴だ。そうした人々が作った極小の生存領域が重なり合った場所で何かが起きる。それは何か、という謎の小説でもある。

(800字書評)

bookaholic認定2016年度翻訳ミステリーベスト10

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