2016年末特別企画:『戦場のコックたち』著者・深緑野分氏に聞く

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日本の優れた創作作品を世界に紹介するという意図で開始されたコンクール〈SUGOI ! JAPAN〉が2016年も開催された。最終的には一般投票で優秀作品が選出されるのだが、〆切は2017年1月3日、間もなくである。未投票の方はぜひ、いっぺん候補作リストを覗いてみてもらいたい。

杉江はこのコンクールのエンタメ小説部門候補作の選考委員を務めている。2016年は、ミステリーを多数リストに入れることができて、自分なりに役目を果たせたと考えている。特に喜ばしいのは2015年の話題作、深緑野分『戦場のコックたち』(東京創元社)が選出されたことである。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を舞台に謎解きの物語が綴られるというミステリーであると同時に、近代戦争の悲惨な現実を描いた意義ある歴史小説でもある(内容はWEB本の雑誌に載せたこちらの書評を参照ください)。

私は集英社『戦争×文学』全集の資料巻において日本の大衆小説がいかに戦争を描いてきたかという論考を寄稿したことがある。同稿で最後に触れたのは柴崎友香が2012年に発表した長篇『わたしがいなかった街で』(新潮社)で、2010年代にどのような戦争小説を書かれるかということにも関心を持っていた。そうしたこともあって、深緑作品に強く反応したのかもしれない。『戦場のコックたち』の単行本がヒットし、多くの人に読まれたことは個人的にも慶事だった。

以下に掲載するのは、深緑氏に無理を言ってお願いした杉江の個人的なインタビューである。お話しをうかがったのは2016年12月、刊行から1年余が経過した後で、氏がどのように自作を評価しているかに興味もあった。同作をすでに読まれた方はもちろん、未読の方にもぜひ目を通していただきたい。

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――年末のお忙しい時期に申し訳ありません。

深緑 いえいえ、取り上げて下さってありがとうございます。こちらこそよろしくお願い致します。

■「日常の謎ミステリー」としての『戦場のコックたち』

――『戦場のコックたち』について、改めてお話を聞かせていただければと思います。この作品は、第二次世界大戦の連合軍ノルマンディー地方攻略から始まる物語です。ルイジアナ出身の純朴な青年が戦争という非日常に巻き込まれ、しかもその中で物資の紛失事件といった謎を解決しなければならなくなる、という状況がミステリーとしては非常におもしろい。もう散々聞かれた質問かもしれませんが、未読の方のために、そうした構造を思いつかれた経緯を教えてください。

深緑 アメリカ陸軍空挺師団兵を主人公にしようと決めたのは後の方で、はじめに決まったのは「戦場という人が死んでいく環境で日常の謎をやってみよう」というアイデアでした。「日常の謎」というと、「人が死なないミステリー」と宣伝されるなど、優しく口当たりのよいものとみなされがちですが、多くのミステリ作家が取り組んできた日常の謎には、日常ならではの苦みがありますし、背景でばたばたと人が死んでいったとしても機能するジャンルなのではないかなと思ったところはあります。

――なるほど、「日常ならではの苦み」というご指摘は重要だと思います。そもそも、このジャンルを広めた立役者である北村薫の〈円紫さんと私〉シリーズにしても、そこに含まれているものは砂糖の甘さだけではなかったわけですしね。本書の第一話は降下部隊のパラシュートが無くなった一件、次は兵士たちに不評だった粉末卵の盗難というように、いわゆる「日常の謎」系の謎が並びますが、第三話以降でギアチェンジが行われ、事件の深刻度が上がっていきます。これは戦況の進展と各事件をシンクロさせる意図だと思いますが、別のお考えがもしあったら教えてください。

深緑 おっしゃるとおり、戦況の進展と事件の苦みを比例させるためと、主人公の挫折と成長を描くためです。第五章では役割変更をしたのも、はじめから決めていた展開でした。

――戦場という非日常の中で主人公が変化していくわけですね。そのお答えを受けての質問です。小説の中で探偵役を務めるのは、主人公ティムとコンビを組む料理の達人・エドです。それ以外にも戦友たちがいて、彼らとの関係が小説の重要な部品になっています。戦友というチームを中心とした物語とされたのはなぜでしょうか。

深緑 戦場という殺し合いの場において、兵士にとって最も重要なのが、隣にいる友だからです。さまざまな文献や体験談を読んだり見聞きしたりしましたが、いずれも、命を預ける相手、自分の死に目を見てくれるかもしれない相手、骨を拾い拾われる関係であった、戦友への思いが溢れていました。しかしこれは平和な世界においては異常な関係性でもあります。看取り看取られる青年たちの姿を描くことで、戦場の異常性を表したいという思いもありました。

■なぜ「日本以外の戦争」でなければならなかったか?

――ミステリーというジャンルを外れてお聞きします。私が本作についてもし不満があるとすれば、一介の司厨兵に過ぎないはずの主人公が、戦況を随時把握できているように見える点です。作中でその箇所は「描きすぎ」、あるいは「神の視点の混入」とも感じました。比較するわけではないのですが、たとえば古処誠二は、『接近』(新潮文庫)で沖縄の戦争について書いた際、戦場を逃げ回る市民が迫りくるアメリカ軍の動向を知ることができたわけがないと考えて、登場人物たちを混乱の中に追いやりました。等身大の人間にとって、戦況とはそういうものであるように感じます。この「視点の問題」については十分に検討されたと思うのですが、よかったらお考えを教えていただければと思います

深緑 これは本当に悩んだところですが、「視点の問題」にこだわるよりも、戦争はいまどうなっているかを書くべきだと思い、そちらを優先させました。『戦場のコックたち』はもともと、戦争ものを読んだことがない、第二次世界大戦についてあまり知らない人に向けて書いたものだったので。また、舞台としたのが44年6月のフランス・ノルマンディーから、45年5月のドイツ、イーグルス・ネストまでという、時間も場所も広範囲にわたったため、限られた状況下ならではの閉鎖的視点が使いづらい、というのもありました。アメリカ軍の場合は、軍のラジオや、兵士向けの野外映画館などで放送されるニュース映画をはじめ、情報の共有はわりとなされていましたし、中隊にはつねに通信兵や衛生兵などがいますので、ある程度はよし、というところで自分を納得させました。バルジの戦いの包囲網も、兵士たちは充分情報を共有していましたし。情報戦の強さも、戦勝国ならではかもしれません。

――読者にいかに情報を知らしめるか、どこまで与えるか、というのは難しい問題ですね。ところで、主人公のティムは次第に心情を変化させていきます。交戦中のナチス・ドイツへの憎悪を募らせていくわけですが、ここに小説の重要なポイントがあると思っています。正義を信奉する気持ち、他罰志向は現代日本の状況にも重なって見えます。作者としてはそうした諷刺の意図は初めからおありだったでしょうか。それとも執筆していく中で自然に出てきた(登場人物が勝手に動き始めた)結果でしょうか。

深緑 「あいつらがはじめた戦争だ、何が悪い」は連合国軍側の兵士が、良心の呵責から逃れるために、よく口にした言葉であるので、そこは使おうと思っていました。ご指摘の通り、現代日本の他罰志向、「当然の報いだ」という安易な自己責任論への風刺もあるんですが、それは、日本人には空襲や原爆投下による連合国軍批判、特にアメリカ軍に対する憎しみがありますけれど、回り回って彼らと同じ考え方に陥ってしまう、ということまでいけるように、意識しました。国や信条、言語、文化、どちらの立場に立っているかが違っても、人間は同じ人間であり、見方が変わるだけで、正義はどのようにも転び得るということを書きたかったのです。コックを書く時、間接的に旧日本國の軍事政策への批判を込められるようにしていますが、それだけでなく、アメリカ軍、ソ連の赤軍、ナチス・ドイツなどへの批判、総じて反戦小説になるように、と考えていました。第五章の列車の場面や、エピローグの最後の方で書き連ねたことが伝われば嬉しいです。

――私は以前、集英社刊の『戦争×文学』全集資料巻の作成に携わっておりました。そのときの方針で、収めるべきは「日本の」戦争ではなく、戦争を描いた「日本文学」ということで、たとえば異世界のものまで戦争行為とその周辺事象について描いたものは網羅したという経緯があります。日本は戦争における被爆国ですが、同時に帝国主義的侵略行為を行った国家でもあります。その両面性を受け止めるためには、戦争に関してありとあらゆる事象を収集する必要があったのだ、とあの全集の意図を自分なりに理解しました。

そういう事情もあり、『戦場のコックたち』が「日本の」戦争ではないものを題材にしている意味について問われる、という読まれ方が個人的には非常に疑問でした。各文学賞の選評などでもそういう意見が散見され、選考委員の「読み」に驚いたものです。

私は、『戦場のコックたち』は戦争行為の普遍的な恐怖が描かれていると思い読んだのですが、作者として第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦以降を特に描かれたかった理由がもしおありなのであれば、教えてください。そこでなければならなかったのでしょうか。

深緑 ひとつには、私はひとつの物事を別の角度から見るのが好き、というのがあります。その大前提を踏まえてのお話ですけれど、簡単に言うと、日本人がアメリカ軍を中心とした小説を書くことがほとんどなかったから、です。

日本人にとって敵側にあたるアメリカ軍は、町の破壊者、殺戮者であると同時に、戦後処理の際にこの国を救済した人々でもあります。憎しみと同時に憧れを抱く対象で、今もまだ占領の名残を引きずっています。しかしそこから一歩引いて、彼らも我々と同じ人間であることを感じてもらいたいという思いがあった。彼らがどのように考え、行動していたのかを、反対側にいる日本人である私が書いて伝えることに意味があるのではないかと思いました。ナチス・ドイツとならび、枢軸国の中心となり、最も遅く降伏した日本は、どうしても自国の戦争と原爆をはじめとする被害に捕われてしまいがちですが、我々は加害者でもあり、この戦争は世界中を巻き込み、互いの信じる正義のために血で血を洗ったわけで、どの国で行われた戦いも等しくわびしい、ということを書きたかったのです。アジア戦線ではなく、欧州戦線を舞台にすることにした理由は、それもあります。特に焦点を後方支援に当てたかったので、補給に関する準備が出来ていなかった、無頓着といってもいい状態だった旧日本軍を追求するよりも、アメリカ軍の豊かさ、ドイツ軍やヨーロッパがどのような状態だったかを書くべきだと思いました。違いを描くことによって、自国の状況と比較することもできます。旧日本軍については、大勢の先人が書いてきていますし、違う視点を追求する日本人がいてもいいだろう、という気持ちが強かったです。

とはいえ、最近は、日本の戦中について書きたいという気持ちも高まっています。その場合も、これまであまりなかった視点からやってみたいです。

■フィクションの力に畏怖する

――ここで、未読の方のために作家・深緑野分についても知ってもらう質問をさせてください。深緑さんのデビューは第七回ミステリーズ!新人賞佳作を受賞された短篇「オーブランの少女」で、同題の短篇集が最初の著作となります。この前作が幻想小説寄りの作風だったのに対し、第二作である『戦場のコックたち』が硬質な戦争歴史小説だったことに驚いた読者も多かったかと思います。そのへんんで心境の変化があったのか、もしくは作品はそもそも一作ごとに別物だと考えておられるのか、お聞かせ願いたいと思います。

深緑 作品はそもそも一作ごと別物だと考えています。私はよく言えば興味の範囲が広く、悪く言うと落ち着きがなく注意が散漫で、とにかくいろいろなもの、舞台の話をたくさん書いていきたいと思っています。現在は引き続き第二次世界大戦に付随する長編を執筆していますが、映画のSFXやVFXのスタッフたちを主人公にした長編も連載中で、他にも「オーブラン」のように幻想風味で耽美色の強いものもまた書きたいですし、全然違うものもやってみたいです。

――第三作『分かれ道ノストラダムス』(双葉社)は高校生を主人公にしたサスペンスでしたしね。では、ご自身の創作についての背景を教えてください。いつごろから小説を書こうと思われたのか、そのきっかけは何だったのでしょうか。

深緑 お話を作るのは、物心ついた頃からやっていました。公園で海賊ごっこをしても、ちゃんと物語が決まっていましたし、幼稚園の頃はお気に入りのぬいぐるみをたくさん使って、信号無視してつっこんできた車に主人公格のぬいぐるみがはねられて大けが、仲間たちが犯人を見つける、という凝った話を作りました。小説と呼べるものをはじめて書いたのは小学校高学年の国語の作文の授業だったのですが、それは自分自身の感情を書くのが苦手だったために、作文ではなく物語に託して書いていたところがあります。

――差支えなければお好きな作家(創作物)をいくつか挙げていただければと思います。特に『戦場のコックたち』をお書きになる上で意識されたものがあればお願いします。

深緑 『戦場のコックたち』を書く上で最も参考にしたのはアメリカのHBO製作のドラマ『バンド・オブ・ブラザース』とその原作のノンフィクション(スティーブン・アンブローズ著。並木書房)です。十代の終わりから二十歳にかけてこれにドハマリしまして、ほぼすべてのセリフを書き留め、登場人物と配役、作戦図を自作したレポートを数十枚書いていました。これは第101空挺師団兵の話で、私のスクリーミング・イーグルス愛はここからきています。

他にトマス・フラナガン『アデスタを吹く冷たい風』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、デイヴィッド・ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』(ハヤカワ文庫NV)、アン・ペリーの短篇「英雄たち」(『エドガー賞全集1990-2007』所収。ハヤカワ・ミステリ文庫)などが好きで、またコックを執筆する際に意識しました。

――最後にお聞きしたいのですが、お書きになる上で読者の存在は意識されますか? またフィクションを読むという行為について(読むのではなくて他の手段でもいいですが)、どのような価値観を持っていらっしゃるでしょうか。

深緑 新人賞の佳作に入選した後で迷走したのが読者に伝えるということをまるで理解していなかったのが大きな原因のひとつだったため、誰が読むのかを意識するようにはしています。たとえば『戦場のコックたち』は、SNSで知り合ったとある20代の女性、顔も本名も知らない、ほとんど会話もしたことのない方が、もし読んだとしても、楽しんでくれるようにという、たったひとりに向けるつもりで書きました。ここまで広く読まれることになるとはまるで考えていなかったので…

フィクションを読む、あるいは観る、という行為については、フィクションによって現実から救われるという側面もありますが、最近は、フィクションが持つ力に良い意味でも悪い意味でも現実が浸食されることが多いと感じることがあり、作り物の持つ威力と不気味さを感じています。その一方で、最近プリーモ・レーヴィの名著『休戦』(岩波文庫)を遅ればせながら読み、あまりの傑作に言葉をなくしましたが、これはノンフィクションでなければ絶対に書き得ない結末だとも思い、現実の恐ろしさに足がすくみました。フィクションにしろノンフィクションにしろ、どんなにあがいても現実からは逃れられないのだという思いがしています。

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