チミの犠牲はムダにしない! その7『日本文学ふいんき語り』麻野一哉・飯田和敏・米光一成

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杉江松恋のチミの犠牲はムダにしない

第7回 『日本文学ふいんき語り』麻野一哉・飯田和敏・米光一成(双葉社)

 中学校のころさ、国語の授業ってなんか嫌じゃなかった?

あえて中学生風に書き出してみました。でもどうだろう、国語の授業。好きだったという人はあまりいないのじゃないかしら。私の考えでは、嫌いな理由というのは二種類ある。一つは、単純に本を読むのが好きじゃないから国語の授業が嫌いだったという理由。授業中、正岡子規の横顔にモヒカンをくっつけてみたり、梶井基次郎の額に「肉」マークを描いてみたりしていたあなたのことですね。授業が退屈なのはわかるけど、教科書に落書きするのは、ほどほどに。もう一つは「本を読むのが好きだったから国語が嫌いだった」という理由である。こっちも、心当たりある人は多いのではないですか。

中学時代の友人にフクモト君という人がいた(仮名)。彼は非常に癇性持ちな人物で、何を見ても大概怒るのだったが、特に国語の教科書が大嫌いであった。なぜかというと、語調がすべて「である」という断定形だったからだ。

「だって、作者の書いていることは間違っているかもしれないじゃないか」と、額に青筋を立てたフクモト君は怒るのである。「そりゃ人間だから、間違うこともあるかもしれないね」と、当たり障りのない答えを返す、昔も今も事なかれ主義の私。そうすると、フクモト君はさらに怒る。「だろ? どうして自分の言っていることが正しいって判るんだよ。間違っているかもしれないんだったら『である』とか書かないで、『と私は思う』とか書いたらいいんだよ」ぶつぶつ。その言葉を聞き流しながら私は思っていた。でもさフクモト君、教科書のすべての言葉が「と思う」だったら、たいへんだぜ。「吾輩は猫である、ような気がしないでもない」なんて小説、誰が読むんだよ。

回想終わり。フクモト君の非常に中学生らしい苛立ちはもっともなのだが、文章を断定口調で書くのはむしろ奨励すべきことである。作者の主張がストレートに伝わるからだ。むしろ「思う」とか「なのではないだろうか」などと書かれた方が、私ならいらいらする。フクモト君、まだまだ青いね。しかし今思うと、彼の苛立ちの原因は「である」と書いた作者では無かったのではないか。むしろ彼のイライラ・レーダーは、「である」という文章を読んで「……ということを作者は言いたかったのです」と解釈する、国語教師の方に向けられていたような気がするのである。

「いもりの死にざまを見て、志賀直哉は死の無常観を悟ったのです」

「梶井基次郎は、清新な檸檬に鬱屈した日常の破壊を託したのです」

「源義経は大陸に渡ってジンギスカンになったのです」

……見たんかあ?

と、中学生は突っ込む。見たのかよ。作者の本音を聞いたのかよ。いや、実際に見てなくても、通常の解釈ではそうなの。そういう風に解釈するべきであると考えられているの。そう説明しても頑固な中学生脳には常識が通用しないのである。

「見たんかあ?」

学生服の肘と背中とお尻のところをテカテカにした坊主頭が、涙目になりながらそう繰り返している光景が目に浮かぶようだ。いや、別に通常の解釈通りに読まなくてもいいし、君の好きな通りに読んでも小説というものは一向に困らないものなのだけど、国語教師的にはバツなんだよね。それは困る? あ、だから君は国語の時間が大嫌いなんだね。そうでしょう?

ちょっと前置きが長くなってしまったのだけど、今回採り上げる『日本文学ふいんき語り』は、国語教師が読んだら怒りだしそうなことばかり書いてある本である。だってさ、宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』を指して、「中二の妄想」みたい、なんて言っているんだもん。でも、そうなんだよな。確かに宮沢賢治の作品はイメージ豊かな文章で書かれている。だからこそ幾通りもの解釈が可能で、評論書も多いのだろう。でもそれって本当に文章力が優れていることになるのだろうか。実は賢治って、妄想力が強すぎて、言いたいことをきちんと文章に表すことができなかっただけの人なのではないのでは? そういえば一生童貞だったそうだし(でも春画を集めるのが趣味)、中二の必要条件をどこまでも満たしている。きっと、中二だから文章も未熟でなんだか曖昧なんだ。その曖昧な文章を、後の人がああだこうだとひねくり回すもんだから、解釈がどんどん難解になっていくんだ……という読み方をすると、やっぱり国語教師は怒るだろう。ブンガクを馬鹿にするなってね。でも、そう読むのは読者の自由なのだ。逆に、国語教師的な規範にとらわれないで読むことによって、何かが見えてくる可能性さえある。フクモト君がいらいらしないですむ小説の読み方が、世の中にはあるのかもしれない。

『日本文学ふいんき語り』は、そういう自由度の高い本の読み方を提案する本である。といって単なる読書ガイドではない。ちょっと説明が必要だろう。この本では、夏目漱石『こころ』をはじめとする八冊の名作日本文学と、片山恭一『世界の中心で愛を叫ぶ』などの四冊のベストセラーが採り上げられている。それを読んで語り合うのは、麻野一哉、飯田和敏、米光一成の三人。本職は評論家などではなくゲーム作家で、それぞれ『かまいたちの夜』『巨人のドシン』『ぷよぷよ』といった名作を手がけている。

実は本書には『ベストセラーゲーム化会議』(原書房)という前作がある。これはベストセラーをゲーム化してみてヒットの構造を解明するという趣旨の本だ。ゲーム化という行為は「対象物のもつルールを明確にし、システムを発見することに他ならないから」、それによって「なぜ売れているのか」がわかるはずだ、というのである。『ベストセラーゲーム化会議』では『世界がもし100人の村だったら』や『バトル・ロワイアル』といった、社会現象になったヒット作が俎上に載せられ、料理された。その料理の過程、つまり三人が意見を闘わせる会議の場面が読みどころなのだが、飯島愛の『プラトニック・セックス』(小学館文庫)が最終的に人生ゲームになったり(AV出演が親にバレて一回休み、親はショックで五回休み、というのに笑った)、舞城王太郎の『煙か土か食い物』(講談社文庫)がリズムアクションゲームになったり(したくなるようなリズムの文章なんです、舞城さんは)、最終的にまとめられたゲーム化プランも意外性があっておもしろかった。

続篇に当たる『日本文学ふいんき語り』では、ゲーム化という制約がかなり緩められ、最終的な着地点が狭義のゲームにならないものもいくつか入っている。実際には商品化できなそうな「企画」も多いのである。思うに、それだけ名作と呼ばれる日本文学が手強かったということなんでしょうね(『プラトニック・セックス』と比べて、ね)。手強すぎて、現実のハードに適したソフトに落とし込むには至らなかったわけである。だが、その分「ゲーム化」という要素ではなくて、企画「会議」の部分が前面に押し出された構成になっており、三人の苦悩がダイレクトに伝わってきておもしろい。ほら、会社なんかでもあるでしょう。打開策の見えない議題を与えられて会議が膠着し、ぐだぐだになってしまうことが。徹夜麻雀の夜明け前なんかの雰囲気にも似ているな。

たとえば太宰治の『人間失格』をゲーム化した際など、太宰治の意外にスチャラカなユーモアセンスに乗せられて話題がそれまくったあげく、麻野が「そうだ、ゲーム化しなきゃいけないんだ!」と我に返って叫ぶ始末である。どうやらいちばん手強かったのはやはり三島由紀夫『金閣寺』だったようで、『世界がもし100人の村だったら』を百冊分合計して一冊に圧縮しても『金閣寺』一冊の密度にはとうてい及ばないのだからそれは当然なのだけど、「圧縮されたファイルを解凍している気分」(米光)「油の海を泳いでいる気分」(麻野)「ファミコン時代にひとりでNITENDO64みたいな」(飯田)と、全員がたじたじなのだった。でも、その「うへえ」状態を克服して、きちんとゲーム化のアイデアを出せるからさすがである。私、この三島ゲームはちょっと欲しいです。○ンダイあたりで商品化してくれないかな。

個人的におもしろく感じたのは、現代的な視点から日本文学の内容を評価したくだり。たとえば夏目漱石『こころ』の重要な登場人物「先生」を、「ほうれんそうができない典型的なタイプ」と断じたところだとか。そうなんだ。この「先生」って、「報告しない・連絡しない・相談しない」の三拍子が揃った困ったちゃんなのである。「『こころ』ってビジネスマンに読ませるべきですよ」(米光)というのには納得。現代のベストセラー四冊を採り上げた第二部では、『電車男』の章がいい。『電車男』の流行に対して「リアルタイムでスレッドに参加できなかった者が、祭の跡の残骸を見るのが悔しい」(飯田)という感慨は、文芸評論には出てこないものです。やたらとメディアで騒がれたせいで「純愛物語」のレッテルがついた『電車男』を「これ、友情の物語だよね。みんなが電車男を応援しているのが感動的なんだよね」(米光)と評価しているのも正しい。そうですよ、ボンクラ男の友情物語なんじゃないですか。米光さん、正しい!(でも、結論としてのゲーム化企画は、友情ものではなくなっていて残念)。その他楽しみどころとしては、脚注にも注目したい。三者が分担して書いている脚注は、いわゆる評論書のものとはまったく異なっている。作家・有島武郎の注が「飯島愛は自伝小説『プラトニック・セックス』(小学館文庫)で、父親に有島武郎の小説を書き写すことを命じられたと告白。(『痴人の愛』の)ナオミにも飯島愛にも読まれた有島武郎は作家として幸せ」なのは、かなり素敵です。

神奈川県の条例で有害図書指定されたことでも有名になった『グランド・セフト・オート(GTA)』というゲームがあるのだが、これは主人公が犯罪者で、非合法かつ倫理に反する行為をすることで話が進んでいく作品だ。しかしこのゲームが支持されているのは、行為そのものではなく、反社会的なことをしてもかまわないという、操作の自由度の高さがあるためだろう。銃を撃ちまくったり、他人の車をかっぱらったりすることができるから受けているのではないのですよ、神奈川の偉い人。『日本文学ふいんき語り』は飛び道具のような意見が続出する本なので、GTA的に(良くも悪くも)受け止められる可能性がある。でも極端に言ってしまえば、作者たちの結論なんて別にどうでもいいのである。その小説が「思ったより自由に読める」ものであることを示したことが本書の最大の功績であると思う。読書感想文を書かされて本を読むのが嫌いになってしまった中学生に、いちばんこの本を薦めてあげたい。額に青筋立てていた、あの日のフクモト君にもね。

■本書のお買い得度:

この本をネット書店で買おうとしている人、あのさ「ふんいき語り」じゃなくて「ふいんき語り」ですからね。「ふんいき語り」と入れて検索してもヒットしませんから。「ふいんんき」というのは2ちゃんねる発の誤用語で、言うまでもなく「ふんいき」の言い間違いなわけだ(私のホームページ『杉江松恋は反省しる!』の『反省しる』も似たようなもの)。深読みするに、あえて誤用語を使うことによって、送り手は「この本は誤読歓迎! 喧嘩上等!」という姿勢を見せようとしているのではないかな。その心意気を買ってくださいな。糸井重里『言いまつがい』(ほぼ日ブックス)だって、言いまつがいなのにベストセラーになったんだからさ。

初出:「ゲッツ板谷マンション」2005年12月19日

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