芸人本書く列伝classic vol.14 若林正恭『社会人大学人見知り学部卒業見込』

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完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)

 オードリーの若林正恭にはつきあっている彼女がいないのだそうだ。

『社会人大学人見知り学部卒業見込』は、彼が雑誌「ダ・ヴィンチ」に連載した原稿をまとめた単行本である。これは編集者から直接聞いたのだけど、連載中には長くなってしまって規定文字数を超えてしまった回もあり、それを単行本では旧に復しているなど、雑誌掲載分とは異同があるのだという。そういえば、回によって長さがまちまちだね、これ。

 彼女がいない、という話はところどころに出てくる。またあれか、芸能人にありがちな「もてないんです」アピールか? 最近はアイドルだけじゃなくて芸人までカマトトぶりやがって、と反感を抱いてしまった人は、ちょっとここを読んでもらいたい。

 

その時その場にいた女性が「でも、自信のないダメ男好きの女っていうのもいるからね!」と言った。一筋の光が射し込んだ。

「そんな女神のような人がいるんですか!?

「いるよ、私がいなきゃダメだからって思うのが好きな女が」

「あー、でもダメだ。『私がいなきゃダメ』とか言われたらなんだてめぇって思っちゃうから」

「うん、救いようがないね」(「男の恋愛に必要なものは?」)

 

 ね。あー、彼女いないというのは本当なのかもしれないな、と思えてくるでしょう。

 過剰な自意識をどう乗りこなすか、ということは本書の中では重要な主題になっている。スターバックで「トール」と注文するのが恥ずかしい。ツタヤでAVを借りるのは平気でも、タイ料理屋でフォーを頼むのに「パクチー抜きで」と注文つけることはできない。自分にできることとできないことの区分けが厳然として存在し、そこからはみ出すことが難しいのである。自分自身で分析しているように、若林には芸人として売れなくて貧乏生活を強いられながら20代までの時間を過ごしてきた体験がある。貧乏で他にすることがなければ、自分自身と向き合うしかない。鏡の中の自分がいちばんの話し相手になるのが貧乏生活というものなのだ。

 そういう修行僧のような日々で培われた自意識過剰なのだから、そりゃ抜けないわ。

 

 本書には、いわゆる「ねた」についての談義は出て来ない。人を笑わせる技芸について触れられた個所はごく僅かで、若林が盲目の駆け出し落語家の修業生活を取材した体験を書いた章ぐらいである。

 では本書に芸談が皆無なのかといえばそうではない。「自分がしないこと、できないこと」というネガティブな形で、芸人のありようについては十分に触れられているのである。たとえばグルメ番組に出るのが難しい。なぜならば自分が「グルメじゃない」ので、高価な料理を味わったあとの感想を言うことができないからである。豪邸訪問などのレポーターをやれば「有名人がどんなに豪華な家に住んでようが興味がない」と身も蓋もないことを言いそうになってしまう。

 ゴールデンなどの浅い時間帯に出ているときに「自分らしく」振る舞うことは難しく、どうしても深夜のラジオ番組でパーソナリティを務めているときとは別の対応を求められることになる。問題になるのは自分らしさなのだ。自分というものは無視するにはあまりにも巨大すぎ、持て余すことになる。売れない時代のオードリーは、現在とは逆で若林がボケ、春日がツッコミ役だったという。若林は「ダリのような細いひげを生やし、世の中のことを鋭利な角度からガンガン突っ込んで暴いてやるのさ!」と意気込んでいた。しかし客にはまったく受けず、売れないのをどんどんこじらせていくことになる。

 

相変わらず何も起こらないので、「俺らにしか出来ないことを!」と高校時代アメフト部であったことを活かして、二人でアメフトの格好をして舞台上でただただぶつかっているということをやった。お客さんはぶつかった時の音に引くし、そして、何よりもヘルメットで顔が見えなかった。アメフトの防具を持って帰宅する時にぼくは首をかしげた。人を笑わそうとしているのか、みんなと違うことをやっていると言われたいだけなのか、わからなくなったからだ。(「穴だらけ」)

 

 御しがたい自分があるというのは本当に厄介なことである。自分がいるばかりに自分が困る。そういう体験をしたことがある人は、本書を読めば必ず共感を覚えるはずだ。また周囲に「こじれた人々」がいたら、この本を読ませてやるといいのではないかと思う。そういう人間は「若林ごときのこじれ方ではまだ甘い」とか言いそうだけど。そうなったら放置するしかないんだけど。

「仕事量よりも幼稚な自意識が揺さぶられ続ける毎日」に疲れ果てた若林は、ある日ついに決意する。

 

あー、めんどくさい。俺はもう星も齧るし、大袈裟に笑ってやる。己の矜持のようなものを徹底的に雑に扱ってやると決心した。ぼくが憧れていたスーパースターはみんなきっとそういないだろうが、だってもう、めんどくさいから。

 家に帰ってカバンの中の談志師匠のブロマイドを引き出しの奥のほうにしまった。

 やってみると道が開けて楽しくなることを知るのはそれからずっと後のことである。つまり最近である。(「大人になったね?」)

 

 談志のブロマイドを引き出しにしまった、っていうのがいいやね。

 本書収録原稿の連載期間は2年半に及んでおり、当然だがその間の心境の変化なども文章には現れている。懇意にしているディレクターから出演するそれぞれの時間帯で自分のありようを分けたらどうか、とアドバイスをされて目から鱗が落ちたり(平野啓一郎『ドーン』に登場する「分人(デイヴ)」の概念になぞらえて理解するのが、純文学と新書以外の本を読まないと公言している著者らしい)、打ち合わせ会議でどうしても言えなかったアイデアを後から作家に電話で聞いてもらい、いいアイデアだが、こういう電話は好ましくなく、できるだけ会議で言った方がいい、派閥を生んじゃうことがあるから、と忠告されて『社会人のルールとマナー』を買って勉強しようと思ったり。そうやって社会人としての経験を積みながら少しずつ成長していくさまを、若林は率直な文章で読者に伝えていくのである。人間が変わっていく過程というのが如実にわかる作品というのは珍しいので、まったくオードリーというコンビ、若林正恭という芸人に関心がない人が読んでも、この部分は興味深いのではないか。

 

 本の最初と最後では明らかに変化がある。あれほど忌避していた高級店の料理も(「飯に困らない国の道楽だな」という言い草がひどくて素晴らしい)、孝行をするつもりで両親を高い店に連れて行き、たいへんに喜ばれたことから「美味しいものの力」というものがあるということには納得するようになる。本当に嫌だった大人数での飲み会も、「あれはおじさんが楽しむためのものだ」と納得したらそんなに辛くはなくなった。

 大人になったのである。しかし若林はこっそり独白する。大人になったのはいいことだ、これでどれだけ助かることか。わかっていながら、しかしそれでも呟いてしまう。

 

散歩しながらニルヴァーナを聴いても、公園のベンチで『ヒミズ』を読んでも以前のように心がざわつかない。

ざわつかない代わりにぼくの心の真ん中には「穏やか」が横たわっている。

心の健康状態は良い。

だけど、空虚だ。

大好きなおもちゃを取り上げられた子供のような気分だ。

みんなの言う通りではあったが、みんなの言う通りの世界は面白くもなんともない。(「「穏やか」な世界」)

 

 わたくしごとで恐縮なのだが、この1月に『僕のきっかけ』(メディアファクトリー)という本を出した(2013年当時)。

映画『ひまわりと子犬の7日間』のアナザーストーリーという扱いで、サブキャラクターの一也という青年が主人公である。彼は上京して挫折を味わい、宮崎県に戻ったという設定になっていて、ちょっと鬱屈した感じを映画初挑戦の若林正恭が好演していた。映画の主人公は堺雅人演じる先輩職員なのだが、若林を中心に据えた別の物語を、というのが編集部のオーダーだった。全体の話は映画脚本に沿っているのだが、彼の上京時代など、私がオリジナルで付け加えた部分が半分くらいある。

その脚本を読んだとき、私は一也の一人称を「俺」にしようと思った。直感である。挫折を味わった青年には「俺」がふさわしいはずだと考えたのである。

しかしその案を編集者に言うと、「うーん、一也はやはり『僕』が似合うと思うんですけど」と反対された。一人だけではなく複数の編集者が同じ意見だった。そうかな、と思って客品を読み返してみると、なるほど「僕」でもいけそうな気がしてきた。「俺」のとげとげしさを出すことができず、内にこもった「僕」である。結果的には、その文体でよかったと思う。自分で言うのもなんですが、『僕のきっかけ』はおもしろいはずです。

「俺」と「僕」。その差についてずっと気にかかっていたのだが、本書を読んでようやく腑に落ちた。若林正恭という芸人を見る人は、彼を「僕」として認識する。自分をこじらせ、その大きすぎる自分を外に出すことができず、鬱々と自分という殻の中で悩んでいる。そういうキャラクターにふさわしいのはやはり「僕」だ。

しかし実は若林正恭という人の中にはいまだに飼いならされていない「俺」が存在するのだ。「俺」はカート・コバーンを聴き、飽食の日本文化を罵り、外面よく振る舞おうとする「僕」に憎悪を抱いている。そうした顔がちらりと覗けてしまえる瞬間があったからこそ、私は一也というキャラクターに「俺」を当てはめたくなったのだろう。

いいぞいいぞ。

なんだか知らないが若林正恭という芸人はすごくいいぞ。

できればこのままずっと、彼女なんかできない、要らない男のままでいてもらいたい。

だって彼女なんて、傍にいたらきっとズバッと切られるぞ。

僕のきっかけ ~ ひまわりと子犬の7日間 ・一也の場合~ (文庫ダ・ヴィンチ)

 

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