芸人本書く列伝classic vol.31 六角精児『少し金を貸してくれないか』

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少し金を貸してくれないか 続・三角でもなく 四角でもなく 六角精児

粗暴な人、というのをテレビで観ることが少なくなったように思う。

文字通りの意味で暴漢でしかない人というのは、いる。ニュースの中に出てくる犯罪者がそれだ。しかし、粗暴というのは「物の考え方や行動の仕方が綿密でなくいいかげんな様子」のことだから、乱暴者とはちょっと違うのである。

瀬戸物屋に連れ込まれた牛、というのがまさに「粗暴」だ。別に暴れ出さなくても、蝿を追って尻尾を振っただけでその辺の花瓶とかを叩き落としてしまいそうな状態のことを粗暴という。かつてはそういう人もテレビは扱っていたのだと思う。テレビに出して、おもしろがったりしていた。しかしある時点でそれは洒落にならないということがわかったのだ。出演者はもっと制御しやすくないと、大金のかかった番組作りの中では危険極まりないからだ。かくして粗暴な人間は人目に触れる場所から消え去った。

いつも観ていたあの人が実は粗暴だとわかった、という今どき珍しい例が、六角精児なのだと思う。彼の最初の著書、『三角でもなく四角でもなく六角精児』(講談社)を読んでびっくりした。三度にわたる離婚経験者であり、そのうち二回は所属する劇団の研究生に手をつけたのだという。二回目の元妻と復縁して四回目の結婚をし、現在は妻帯者。六角は2000年に始まったテレビドラマ「相棒」の鑑識官・米沢守役で人気が出て一般にも知名度が広がったのだが、そのパブリックイメージの中に離婚男というのはなかったはずだ。著書で自ら明かすまで、六角はそのことに誰にも気づかせなかった。

自分のことをさし措いてあまり容貌のことは言いたくないが、六角は決して美男子という範疇に入る人物ではない。にもかかわらずそうして女性関係に不自由せずに来たのは、どこかに人を誑す能力を宿しているのだろう。六角は、売れるまでの長い雌伏期のうち、稼ぎのある女性に頼って生きていた時代がかなりあるらしい。早い話がヒモである。

生活習慣病の保持者で、かつ、演劇人としては問題があるほどに運動嫌いである。『三角でもなく四角でもなく六角精児』は、自身のだらしない部分を遠慮なく曝け出した好著であった。

『少し金を貸してくれないか』(講談社)は、その続篇にあたるエッセイ集である。

本は、いきなりパチンコの話題から始まる。一軒のパチンコ屋で稼いだ金を他のパチンコ屋で溶かしてしまった話なのだが、まだ序の口。その次に早くも一つ最低なエピソードが紹介されている。所属する劇団の旅公演でパチンコばかりしていた時代の話である。ある町のパチンコ屋で大勝ちした六角だったが、時間がなくて換金ができずに移動することになってしまった。その店の換金所で扱っていた賞品は「味の素」の詰め替え用袋である。ダンボール一杯の「味の素」の処理に困った六角はやがて劇団の後輩たちにこう言う。

「おい、お前らこの味の素、一袋百円で買え。御飯のお供に携帯しろ」

最低の話である。

六角の文章がおもしろいのは、彼が書く過去の所業の一つひとつが、本当にろくでもなく粗暴だからである。よくある「昔はやんちゃしてました」的なままごとめいた不良ではなく、かといってこちらが読んでいて引いてしまうような犯罪でもない。「人間としてどうか」という話なのである。これは以前原稿でも書いたが、六角の話は彼が役者とか芸能人であるかないかは関係なく、一人の人間として変だというレベルに達している。齟齬を来たしている。

本書収録の「麻雀に愛は必要ですか?」という章では、将来家を引っ越したときに麻雀部屋を作ろうと企む話が出てくる。そのための障害は麻雀好きでもなんでもない妻なのである。六角は妻に麻雀を教え始める。妻は意外にそれが気に入ったらしく、自分で麻雀の教本を買い求めて勉強をし出した。「これはいける!」と判断した六角は、彼女を実際の卓に誘ったのであった。

その日の僕はツイていた。ツモの流れが非常に良く、簡単に手配がまとまる。他の二人は僕を警戒して牌を絞り始めるが、危険牌と安全牌の違いもまだ分からない妻は僕にバシバシ振り込んでしまう。そして、高目イーペーコーのイーピンを僕に放銃した時、妻は「ねぇ、どうてあなたは私からばっかり当たるの? 愛がないよ」と言ってシクシク泣き出してしまった。僕は突然の出来事に驚き、「お、おい、どうしたんだよ。泣くなよ。こういうゲームなんだよ。愛は、愛は関係ないんだよ」とフォローしたが、妻は激しく首を振って、ただ泣くばかり。(後略)

奥さんには同情を禁じえない。

このエピソードで問題なのは「僕は突然の出来事に驚き」という個所であるのは明白だろう。そりゃ、六角夫人ではなくても怒るであろう。「愛」とかそういう問題ではなく、初心者を平気な顔でむしろうとしたのが自分の夫だということに対して彼女は怒ったわけである。その気持ちの動きを六角はまったく顧みてないのだ。こういうことがつまり「粗暴」の所以である。

こういう形で自身の粗暴さを無防備に曝け出すのが『少し金を貸してくれないか』という本のおもしろいところだ。「ヤンチャ自慢」のように意図して書いたのではない、というところがいい。六角が、自分の行いが引き起こす結果を十分に承知しているところも好感の持てる点である。わかっているけどやってしまうのだ。もしくはわかっちゃいるけど、体が動かないのだ(おそらくこっち)。回避できないのである。そうやって広がりゆく波紋の真ん中で「しょうがないなあ」と苦笑いをしているような感じがある。何かを諦めないと到達できないような境地に、六角はいるのである。

本連載では幾許かの芸論、演技論をパフォーマーが自ら語っている本を採り上げるのを常にしているが、本書にもそうした要素はある。「褌は手強い」の章はその一つで、六角が「自分はいかに時代劇が苦手か」ということを語っている。章題から薄々察していただけると思うが、誠に無防備に、六角はその理由を語っている。こうした形で時代劇について触れたものをあまり読んだことがないので、逆に新鮮でさえあった(主に上半身の一部と下半身の一部についての「芸論」なのである)。

この「褌は手強い」を含む第二部には、本全体と同じ「少し金を貸してくれないか」という題名がつけられていて、演劇など六角の本業についての文章が集められている。六角は自身の理想を声高に主張するようなことはせず、「踊れなくても、刀が使えなくても興味がないんだから別に構わない。普通に喋ればそれで充分だ」(「何の芸もない石ころ俳優」)というように引き算の形でそれを綴っている。にもかかわらず、文章からは六角精児という役者の確かな輪郭が浮かんでくるのである。そこが実に不思議だ。

以前に『三角でもなく四角でもなく六角精児』をレビューした際、こういうことを書いた。

「芸のためなら女房も泣かす」とうそぶいて止まないのが無頼派の芸人なのだというが、そういう美学は皆無だ。六角は過去に3度の離婚を経験し、そのうち2度目に離婚した女性と復縁して4回目の結婚をしている。現在は彼女のおかげで安定した幸せな生活が送れているそうなのだが、「こんな青空のような生活が何時まで続くのだろうと不安にな」り、「仕事が全てなくなり、スッカラカンになった僕が、今住んでいる家の前で、ぼ〜っと佇んでいる夢」を見たという。

おそらくはその寒々しい夢の場面こそが真の心象風景なのだろう。一度幸せな暮らしやまっとうな生活に背を向けたことがある人間は、容易にはそこに戻れない。背中にぴんとそっぽを向く癖がついてしまっているからだ。持ちつけないものを手にすると、あっという間に取り落としてしまうのではないかと怖くてしかたないからだ。そんな自分であるということをごまかすために六角は日々の大半の時間を使っているのではないかという気がする。

もし自分が瀬戸物屋に入ったぐらいのことで騒がれる存在なのだとしたら、人間と思っているが実はそのなりをした牛なのだとしたら、きっと私は夢を見ると思う。どうしていいかわからない自分、どうしようもない自分を律している夢を。六角が観客の前で見せている演技というのはおそらく、世になじまない自分をごまかすための芝居にもなっているのではないか。六角精児を演じきることによって真の自分を覆い隠そうとしているのだとすれば、その演技が最小限の不可欠なものだけで成り立っている理由も理解できる。たぶんそれは必要がないのだ。

第四部「あれは心の折れる音?」で好きな鉄道旅行やボクシング観戦の話をしているときだけ、六角は少し安心しているように見える。それはたぶん、他の誰も傷つけることがない話題だからだろう。四肢を伸ばしても叱られるところがない場所で牛は思い切り体を伸ばす。明日からまた瀬戸物屋の中でおっかなびっくり歩かなければならない。そういう考えを頭の隅に追いやって、牛はしばしのまどろみを楽しむ。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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