芸人本書く派列伝returns vol.5 山本晋也『カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春』

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カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春

山本晋也『カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春』(双葉社)から以下の情景を引いていく。

197×年某月某日、新宿2丁目にそのころあった、ひとみ寿司の座敷で怪しい集会が開かれていた。

怪しいといっても過激派・カルト集団というような物騒なものではなく、漫画家・赤塚不二夫を中心とする「面白グループ」の人々である。これは赤塚の交友関係から自然発生した親睦集団で、当時としても豪華な面子が顔を揃えていた。NHKの演芸ディレクターでありコント55号の育ての親としても知られる滝大作、放送作家兼評論家の高平哲郎、ピンク映画監督の山本晋也、ジャズマンの山下洋輔・坂田明、コメディアンの内藤陳、歌手の三上寛といった面々である。そこに九州から上京してきたタモリが迎えられ、デビュー仕立ての所ジョージ、THE ALFEEの坂崎幸之助といった後に名をなす人々が加わっていった。山本晋也も自身の監督作品常連であったたこ八郎、柄本明らを伴っている。

寿司屋といってもそこでは誰も寿司は食わず「ブッカキ氷の上にキャベツの千切りを載せて、塩と胡椒と味の素を混ぜた赤塚先生特製の香辛料を付けて食う」だけ、酒は焼酎「白波」の番茶割りだ。つまりグルメや贅沢とは程遠く、大のおとながどれだけ馬鹿なことだけを言い合いして時間を浪費していけるか、ということを競う場だったのである。

面白グループが残した足跡については、まだ未評価の部分が大きい。私的集団で表立って行ったことが少ないのがその一因だろう。赤塚という庇護者をつけてタモリを世に出したことが最大の功績であるのは間違いないが、タモリだけではなく、所、坂崎らにオールナイトニッポンのパーソナリティを持たせ名前を周知させるなど、グループが人脈を駆使して行ったことは決して少なくなかった。

その一方で赤塚不二夫は、面白グループに熱中していた時代が、人気が頭打ちとなって下降する時期と重なっている。赤塚は1976年にマネジャーの横領によって1億とも2億ともいわれる金を失った。凄いのはそれを発条としてさらに仕事をしようとしたことで、数年でその損失を埋めて余りある額を稼いだとされている。しかし仕事上は決して順風満帆な時期ではなかった。1974年に「週刊少年サンデー」で連載していた『レッツラゴン』が終了、その後同誌ではヒットを出せず、数年後に去っている。同時期のヒット作『天才バカボン』もすでに昔日の栄光からは遠かった。幸い少年誌ではなく一般誌の「週刊文春」で時評諷刺マンガ『赤塚不二夫のギャグゲリラ』が始まっており、これがかろうじて赤塚をギャグ漫画の第一線につなぎ止めていた(1982年に同誌の連載は唐突に終わる。以降赤塚に代表作と呼べるようなヒット作はない)。

見ようによっては、少年誌では発揮できなくなった才能を面白グループという集団の中で発散することでバランスをとっていたようにも思える。ただし赤塚はあくまで漫画家であって、メディアの波を自在に泳ぐクリエイター、タレントではなかった。ゆえに面白グループの活動が赤塚の創作を後押ししたという見方は、残念ながらとりづらいのである。その意味では赤塚の弔辞でタモリが「私もあなたの作品の一つです」と読み上げたのは、正鵠を射た言葉であった。この時期の赤塚が、タモリという創作物を世に出すために力の多くを使っていたことは事実だからである。

話題がやや脱線した。197×年某月某日の企みとは、当時デビューしたてで若い女性層に人気のあった所ジョージを主演にし、映画会社から金を引っ張って本編作品を製作してしまおうというものである。そのときひとみ寿司に不在だった山本晋也は、深夜2時を回った文字通りの真夜中だったにもかかわらず呼び出されてタクシーで急行し、その場で監督を引き受ける。

しかしこの企画は二転三転した。最初に手を挙げたのはにっかつで、赤塚原作のポルノ大作を撮るという話になる。当然だがそれにはアイドル的人気のあった所ジョージは出演できず、結果としては当時無名だった柄本明主演の『赤塚不二夫のギャグポルノ・気分を出してもう一度』(1979年3月31日公開)が出来上がる。

二の矢が来たのはその直後のことだった。東映セントラルフィルムから声がかかり、面白グループ企画、所ジョージ主演でコメディ映画を作るという話が持ち上がったのだ。もちろん受けない理由はない。こうして伝説のカルトムービー『下落合焼とりムービー』の撮影が始まることになる。恐ろしいことに同作の公開は1979年6月23日、『気分を出してもう一度』から3ヶ月も経っていない。しかもその間、山本晋也は『女子大生三日三晩汗だらけ』というピンク映画も1本撮っているのである。

主演の所ジョージは、撮影について『正しい所ジョージ伝 天才はグレてばかりもいられない』(八曜社)でこう振り返っている。

山本監督のいい加減さは、こんなもんではなかった。

海辺のロケで、いかだをモーターボートで引っぱるシーン。

ロープで適当にしばって、撮影に入ろうとする監督に、オレは忠告した。

「これじゃ絶対にはずれちゃいますよ」

「大丈夫だよ、所」

案の定、ロープは簡単にはずれてしまった。

ハーレーで家の中に突っ込むシーン。

台本には、

――突っ込んで、所止まる――

なんて、いとも簡単に書いてあるので、オレはまた忠告した。

「突っ込んだって、中にじゅうたんが敷いてあるから、ひっくり返りますよ」

「大丈夫だよ、所」

案の定、オレはひっくり返ってしまった。

『カントク記』収載の山本と所の対談では、同じ場面についてこういう記述がある。

山本 ドアを突き破るシーンだって、あれもハンドルの幅ギリギリじゃなかったっけ?

所 そうそう、あのドア、ぼく一応確かめたんですよ、スタッフに。「これ、ちゃんと破れるんですか?」って。そうしたら「薄いベニヤだから大丈夫、大丈夫」って。でもハーレーのハンドルってデカいんですよ。本当に大丈夫かなあ、って裏に回ってみたらしっかり柱があるの、ダメじゃんって(笑)。

いずれにせよかなり場当たり的、ゲリラ的な撮影現場であったようだ。しいやみつのりが聞き手を務めたインタビューによれば中心の撮影現場の一つであった和光大学の場面は、無許可撮影であったという。出演者の中に和光大学を学生運動でほとんど牛耳っていたメンバーがいたのだ。講義をやっている横で柄本明をハーレーで引きずるなど、乱暴な場面をどんどん撮影したわけで、無政府状態にもほどがある。

しかしこれは同作だけのことではなく、山本が当時主戦場にしていたピンク映画の現場では当たり前のことだった。後に『おくりびと』でアカデミー賞外国映画賞を獲得する滝田洋二郎が、山本組で映画のイロハを学んだというのは有名な話である。山本が滝田を認めたのも、ある現場での出来事だった。寒空の中で女性が乱暴される場面を撮ることになった。彼女が買ったおでんが地面に落ちて湯気が上がっている、という物撮りのカットが時間経過を示すために必要なのだが、買ってきてからしばらく経ってしまったために冷え切り、湯気などまったくない状態になってしまったのだ。しかし助監督の滝田洋二郎は慌てず騒がず、悠然としている。滝田は、カメラが回る直前にズボンのチャックを下ろすと、盛大に小便をかけ始めたのである。当然だが湯気が上がる。

しかしコイツのスゴイところはそこからだった。

「カット、オーケー!」と言うと、オレに向かって、

「オーケーですね。ホントにオーケーでいいんですね?」と念を押す。それもしつこく何度も訊く。

「うるせえな。オーケーって言ったらオーケーなんだよ」と言うと、急いで暗闇へ消えた。そう、滝田のヤツ、NGが出る可能性を考えて、小便を途中で止めてやがったのだ。これはたいしたヤツだと思った。

『下落合焼きとりムービー』の元になったのはジョン・ランディスの出世作『ケンタッキー・フライドチキン・ムービー』だ。さしたるストーリーはなく、ギャグの連続だけでつなげていくタイプの作品である。製作総指揮のような立場にあった赤塚もその場その場で思いつきのようにギャグを足し、また、自分がおもしろいと思ったメンバーを自由に出演させた。映画にまとまりがないのはそのためで、評価が分かれる原因にもなっている。しかし滝田は、先行きが見えず、段取りが出来ない製作の現場にいることで、自分の中に地力がついていっていることを撮影中に感じていたという。『カントク記』中の山本との対談で、こう語っている。

滝田 (前略)だからね、あの作品で「映画って必ず終わる」ってことを覚えた。ということは、終わるんだから、その間は一生懸命やんないと損だなってこと。つまり映画の中で確実に自分というものが形成されていく。これは今になってハッキリわかることで、当時は言葉に出来なかったけど、とにかくカントクの後ろをがむしゃらに付いていく。そうすると景色が変わるんですよ。カントクの目の前も変わっていったんだろうけど、ぼくも変わったと思う。

おそらく、同じ感覚を面白グループの全員が感じていたのではないだろうか。『下落合焼とりムービー』の完成後、面白グループの集まりは次第にその回数を減らし、やがて開かれなくなる。映画から2年後の1981年に『今夜は最高!』、さらに翌82年に『笑っていいとも!』が始まり、タモリという面白グループ最高の作品が一般の視聴者の間でもスターとして認知されていくようになるのである。1970年代の後半、赤塚不二夫がマネジャーに金を持ち逃げされてからの数年だけに存在した、酔狂の極みのようなグループはこうして幕を下ろした。

以上は面白グループという側面から見た『カントク記』評だ。ところが山本晋也という人には、赤塚不二夫との関わりだけでは書き尽くせない側面がある。そのアチャラカの血とでもいうべきものについて、そしてここでは名前を出すことしかできなかったある芸人について、次回は改めて触れることにしたい。(つづく)

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く派列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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