芸人本書く派列伝returns vol.13 三遊亭円丈『師匠、御乱心』

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

2017年2月の「水道橋博士のメルマ旬報」原稿である。約2年前のこの回をもってreturnsの毎日更新をいったん止め、月曜日のみの更新とする。明日からはまた別の過去連載原稿を再録していくことにするので、よかったらまた読んでみてください。

=============================

師匠、御乱心! (小学館文庫)

2016年の演芸・落語本の補遺として『円丈落語全集1』を取り上げたところから、三遊亭円丈の『御乱心』(現在は小学館文庫から復刊され、『師匠、御乱心』に改題)に話が及んだ。

前回と重複するが改めて書く。『御乱心』とは1978年に勃発した落語協会分裂騒動について、六代目三遊亭圓生門下であった円丈が当事者の視点から振り返ったドキュメンタリーである。圓生は当時落語協会会長の職を五代目柳家小さんに禅譲していた。後進に座を譲ったのはあくまで表向きで本心は後輩を前に立てての院政を敷くつもりだったが、小さんの性格が邪魔をしてそれが出来ず、意を通せないために退会・独立ということになった、というのが通説である。このとき、直弟子の他に七代目橘家圓蔵とその弟子月の家圓鏡(後の八代目圓蔵)、圓生に心服していた古今亭志ん朝、落語協会の現状に不満があって打開策を模索していた立川談志らが一旦は追随して退会を表明する。というよりは、圓生の一番弟子であった三遊亭圓楽と立川談志が参謀となり、現体制に不満のあった圓生を神輿として担いで協会分裂を企てたといったほうが事実に近いらしい。

というのも、圓生と小さんが決裂したきっかけが大量真打制度にあるからである。大量真打制度というのは、落語協会の二ツ目がだぶつき、いつまで経っても昇進できずにいる現状を打破するために小さんが決定した、十人、二十人を同時に真打にするというものである。これを圓生は、真打の座はそれにふさわしい者にのみ与えられるべきであるとして批判し続けた。そして三遊亭圓歌、三遊亭金馬、春風亭柳朝(故人。先代)らが小さんに邪な考えを吹き込んでいるとして常任理事を罷免し、代わりに志ん朝、圓楽、談志ら若手を登用すべしとして要求を突き付けた。しかし小さんは若手の常任理事昇格は認めたものの、他の「改革案」については首を縦に振らなかった。そのために圓生は進退を決めたのである。

おかしいのは、圓生が推した志ん朝、圓楽、談志のうち、大量真打制度に反対していたのは志ん朝だけだったことである。談志は真打の地位などはパスポートに過ぎないという割り切った考えの持ち主だった。大量真打制度が実施された後、当の圓生の弟子である三遊亭好生(後の春風亭一柳)が異を唱え、十人のうちの一人として昇格することを拒んだことがある。自身の意見を読売新聞夕刊(一九七二年七月二十九日)に発表したところ、談志はこれに反論し、同じ読売の十月二十八日夕刊「好生の意見は単なるわがまま」と断じたのである。これが契機になって、落語協会内に不協和音が生じていることが明らかになった。

もし落語協会分裂が圓生の改革案に賛同してのものであったなら、大量真打制度についての意見も退会者全員が共有していなければ筋が通らない。つまりはそれは名目に過ぎず、最初から各人の思惑は異なっていたのである。談志はこの件について、落語協会、落語芸術協会に続く第三勢力を成立させ、寄席の出番を三分する狙いがあったと何度も書いている。会長である小さんは談志の師匠だったが、協会分裂は不忠にはあたらない、なぜならば新しくできる落語三遊協会は第二落語協会のようなものであり、二つの団体が手を組んで落語芸術協会と対抗することにより、圧倒的な優位に立てるようになるからだ、という理屈である。談志によれば、この思惑があったがゆえ、新協会設立にあたっては小さんの実の息子である柳家三語楼(現・六代目柳家小さん)も参加させる意図があったという。

協会分裂にあたってアンチ談志の立場をとる者は、裏に回って圓生を焚きつけた主犯だ、と批判する。それは半分正しく、半分間違っているわけである。談志には思惑があり、それゆえに圓生の動きを利用した。しかし圓生には圓生で理想と不満があったわけであり、ただ神輿として担がれたわけではない。

吉川潮が聞き役を務めた自伝『人生、成り行き』(文春文庫)の中で、談志は正直にこう述懐している。

[……]そこで、具体的に物事が動き出す前に、あたしが「円生師匠は別格として、新リーダーは誰ですか」と訊いたんです。ズバッと言えば、「八十歳近い円生師匠が亡くなった後の会長は誰ですか、おれでしょう?」ということですヨ。そしたら、「いや、おまえさんじゃありません、志ん朝でげす」「そりゃあねえだろう」。これで結局、「おれがいなくて三月保てばお慰みだ」って捨て台詞吐いて、あたしは早々に落語協会に戻ったんです。

[……]あたしも次期会長のお墨付きがどうしても欲しいわけではなくて、志ん朝はリーダー性がまるでないですから、当然、リーダーはおれになるだろう、と思ってた。[……]あたしのプライドを立つようにしてやれればよかったんだけどネ。人間、プライドと利潤で動くわけですから、そこで、あたしは落語協会に戻っちゃった。あたしは割と、力関係みたいなことを、率直に言ったり訊いたりするんですよ。[……]

落語三遊協会設立の記者会見が開かれたのは一九七九年五月二十四日だが、上記のようなやり取りを経て、すでに談志は小さんに詫びを入れていたため、それには参加していない。そのため表面上は無傷でこの協会分裂をやり過ごした形になったのである。

記者会見の直後、五月二十五日に都内の寄席席亭が集まっての会議が行われ、落語協会の分裂を認めないこと、圓生に協会への復帰を勧めることが決められた。これによって橘圓蔵と志ん朝一門は降伏を決意し、小さんに頭を下げて協会に復帰する。だが、一旦は叛旗を翻したという事実は消えずに残り、志ん朝一生の恥辱となって尾を引くことになるのである。志ん朝シンパや古今亭一門の中に談志を許さず、後々まで批判を行った人がいるのはこれが主な原因だろう。

落語協会分裂騒動をセミ・フィクションの形で書いた落語家がいる。志ん朝の兄である十代目金原亭馬生の一番弟子・金原亭伯楽だ。著書『小説・落語協団騒動記』(本阿弥書店)がそれで、協会分裂に際して師匠・馬生が味わった辛酸を描くことに主眼がある。三遊亭圓生が山遊亭金生、柳家小さんが柏家貴さん、金原亭馬生が草原亭羊生、古今亭志ん朝が東西亭朝光、立川談志が横川禽吾と変名になっているが、モデルは歴然としている。

この中に、禽吾(談志)が協会に戻って来た場面がある。貴さん(小さん)に連れられて姿を現した禽吾を羊生(馬生)はこう怒鳴りつけるのだ。

「[……]お前は、うちの朝光(志ん朝)が眼の上のたんこぶなんだろ。いまの協団にいたんでは、朝光の上には行かれないものだから、おかしな画策などをしおって。いいか、お前は、自分の師匠を裏切って、新協団を作る事など考え、そこで自分の我儘を通そうとしたんだ。そしたらまた、そこに朝光が現れた。そこでまた逃げ帰ってきた。これが本筋だろう。いいか、この一連の騒動を引き起こした張本人は、禽吾、お前だ。お前みたいな身勝手な奴は、百叩きにしても、俺は勘弁できん」

「お前は百叩きですよ」というのは実際に馬生が言った台詞らしく、談志も書き残している。ただし、志ん朝が新協会に思いがけず参加したために逃げ帰ってきたというのは穿ちすぎた物言いで、志ん朝、圓楽、談志の三人は行動を共にする、という密約のようなものが最初からあったはずである。当の志ん朝本人が「三人は一緒のはずじゃなかったのか」と談志をなじった場面が後に目撃されているからだ(立川談之助『立川流騒動記』他)。つまりはそのくらい、談志を卑劣な人物に描かないことには腹の虫がおさまらない、という人が馬生・志ん朝サイドにはいたということである。

志ん朝に対する談志の嫉妬が協会分裂の契機だったのではないか、という説は当時からあったらしい。新宿末廣亭の初代席亭であった北村銀太郎にインタビューした『席主北村銀太郎述 聞書き・寄席末広亭』(冨田均著。少年社)にも「談志は火つけ役だけして、それをつぶして、志ん朝らの格下げを狙つたのかも知れないなんていふもんもあるけど、どうなんだか……。談志にしかわからないことだよ、そんなことは」との記述がある。

北村銀太郎は東京の席亭会議の筆頭であり、落語家に対して強大な影響力を有した人だった。圓蔵、志ん朝らが協会に復帰した際に、彼らを罰するくらいならば小さんも会長を辞めろと迫り、処罰させないようにしたのも北村の功績である。そして落語三遊協会の設立を阻んだのも、この「北村の大旦那」だった。

事前にあの人(圓生)が私んところへきて、今度かうしますから、よろしくって、(三遊協会)会員の名簿を見せてくれたんだけど、それ見たらなかなかいいメンバーだったから、私もやれるもんならやらしてみたい、また私もやつてみようという気があったんだけど、いかにも浅いんだ、メンバーの底が。一人欠けたら(休演したら)、ぐんと落ちてしまふやうぢや困るわけだよ。鈴本(演芸場)は承知したんだけど、私だけがウンと言はなかった。メンバーをもう少しふやして底を厚くしてくれれば、新しい会としてこつちだつて認めようと思つたんだが、円生さんが自腹を切らないんぢや仕様がねえよ。[……]

[……]それに講釈や漫才なんかの色物のいいのをもう少し集められればよかつたんだが、それが出来なかつた。芸術協会の方からよぶなり、上方から連れてくるなりすればよかつたのを、なにも出来なかつた。まあかりに一千万円なり一千五百万円なりの資材を投げ打つて前金を出せば、少しは集められたはずなんだが……。もう少し談志や円鏡あたりに、その点で相談してみればよかつたんだらうけど、そんなこともしなかったやうだ。大体、円生さん自身が自分の香盤を下げられないやうぢや駄目だよ。あれは志はともかく円生さん、一生の大失敗ですよ。

この通り、北村は寄席経営者として現実が見えており、圓生プランの欠陥もしっかり把握している。圓生の反対した大量真打制度についても、真打にすれば芸人は育つものであり、だいたい「円生さんにしたつて、若いころは下手だつたんだ」とばっさり切り捨てている。

『聞書き・寄席末広亭』で重要なのは、談話の中で北村が「今日、円生さんのかみさんがきたよ。円生一門を落語協会に復帰させてほしいつていふことなんだ」と言っていることである。注記によれば談話収録が行われたのは一九七九年十一月八日、圓生が亡くなったのが九月三日のことだから、その二ヶ月後ということになる。『御乱心』巻末の年表によれば、圓楽一門を覗いた圓生一門が師匠宅に集合して復帰を相談したのが十月二十五日、圓楽が復帰拒否宣言をしたのが十一月二十五日、圓生一門の復帰が決定したのが十二月二十日になる。この流れの中で北村銀太郎が小さんに対して再び口利きをしたのは間違いないところである。

これまでも触れてきたとおり、『御乱心』は三遊亭圓生が慣れ親しんだ落語協会を割って新協会設立を宣言するという「御乱心」に端を発した出来事を描くものだが、その後半ではもう一つ別の話が進行している。圓生と一番弟子である圓楽の反目だ。円丈描くところによれば、三遊協会発足後、圓楽は圓生から距離を置くようになり、師匠の前にもほとんど顔を見せなくなったという。

円生は、協会の事務所がチャンと決まるまでの間、しばらく星企画(圓楽の事務所)がそれを代行して欲しいという希望を円楽に言ったことがあった。他の弟子達もそれが当然のことだと思っていた。しかしプロダクションは、営業上一つに偏るのはまず、どんな芸人でも頼まれれば紹介しなくてはいけない。そして何より、利潤第一でなければならない。そこで円楽は、中村(元星企画)を推薦し、トカゲのしっぽ切りのようなことをしたのだ。三遊協会と星企画の混同を恐れて星企画を三遊協会から遠ざけ、ついでに円楽自身も遠ざかって行ったのだった。

驚いたことに、それから一ヵ月もたつと、

「あの円楽って奴は、実にどうもケシカラン奴だ!」

なんと円生自ら円楽を非難し始めた。九月に星企画で企画した三遊一門ツアーでハワイに行ったが、その間に円生と円楽は遂に一言も口を利かなかったのだ。

円丈の視点から描かれる三遊亭圓楽は、師匠を担いで落語協会を脱退させた上、梯子を外して一門を寄る辺なき集団にさせた主犯である。この対立のために師匠の没後、圓生夫人は圓楽と縁を切り、「円楽に三遊協会を継がせないし、円生は私が墓へ持って行く!」と宣言するに至った、と円丈は書く。たしかに圓生の長男が代表を務めていた三遊協会を圓楽が敬称することはなかったし、圓生も事実上の止め名になっている。

ご存じのとおり、圓楽の高弟であった三遊亭鳳楽が七代目を襲名する動きがあったが、これに対して円丈が異を唱えたことがあった。両者の間で芽生えた対立は、やがて七代目圓生襲名を賭けた対決という興行につながっていくのだが、やはり圓生の弟子であった三遊亭圓窓までが争奪に加わったことから軸の存在が曖昧になり、現在に至っている。孫弟子である鳳楽よりも直弟子の圓丈、圓窓に正統性があるのか、という問いは難しいものなので別稿に譲りたい。背景には以上のような禍根があったことだけをここでは記すのみである。

もちろん、談志に対する非難を一面的なものとして受け止めるべきなのと同じ理由で、円丈による圓楽攻撃もそのまま信じることはできない。当事者以外は知りえぬことであり、騒動の中でそうした深い傷を負った者がいたのだということのみを知ればいいことなのである。落語家の著書を読むときの難しさはこの点にある。すべてを鵜呑みにしてはいけない。演芸者の主観にはそう映っているということだけを見ていかなければいけないのだ。

圓楽と円丈の間で深まった溝は、その後どうなったのだろうか。円丈が二〇一三年に上梓した著書『落語家の通信簿』(祥伝社新書)によれば、その後は法事などで会っても挨拶以外いsっさい言葉を交わさない日々が続いたという。二〇〇七年になって圓楽が旭日小綬章を受賞し、そのパーティーの招待状が円丈に贈られた。これは和解の申し出かと出席した円丈と圓楽の間ではこんなやり取りがあったという。

最初に、主催者・圓楽師が来客ひとりひとりに挨拶。やがて、円丈の番が来たので、圓楽師の目をじっと見据えて、

「どうも、おめでとうございます」と言うと、圓楽師は一瞬、驚きの表情で、

(てめえ、何しに来やがった)という顔をした。そこで円丈は、

(アンタが呼んだんだろ?)という顔で、ぐっと睨み返した。この間、おそらく二~三秒。あの落語協会分裂騒動は、本当に深い深い傷を残したのだ。

圓楽ともう一人、『御乱心』では円丈に批判されている人物がいる。三遊亭圓窓だ。圓窓と三遊亭圓弥は生え抜きの圓生門下ではなく、春風亭柳枝(八代目。個人)が一九五九年に没したために預かり弟子となった。直弟子であり一門の筆頭でありながら、圓窓が七代目襲名に手を挙げた際にすんなりと他の二人が引き下がらなかったのはこのためである。

『御乱心』の序盤、圓窓は感情的な一面のある圓楽よりもはるかに信頼できる兄弟子として好意的に描かれている。しかし三遊協会設立の動きの中で圓窓は圓楽派に属したため、円丈も次第に厳しい視線を送るようになるのである。

俺は昔の円窓を想い出してた。昔はこうじゃなかった。彼は、師の家でも兄弟弟子と

話もせずに黙々とケイコをしていた。周りの雑音には一切耳を貸さず、全くのマイペース、彼の目はいつもと置くを見つめていた。そんな男らしい円窓が好きだった。[……]

十年の歳月が彼を変えたのか、俺の単なる買いかぶり過ぎだったのか、とにかく俺は百パーセントの確立で“円窓はこういうやつなんだ”と結論を下すしかなかった。

さようなら、やさしかった円窓兄さん!

三遊亭圓窓は誰もやらなくなった演題を復活させる「圓窓五百席」という試みをコツコツと続けて完結させるなど、芸には求道的に打ち込む人である。おそらくは自らの思いを周囲に説くのが苦手な人柄なのではないだろうか。著書の一つ『ふてくされ人生学 古典的生き方のすすめ』(現代教養文庫)などを読んでも、落語家としての含羞がそうさせるのか、斜に構えた姿勢で文章が綴られており、万人に好感をもたれる書きぶりではない。

ここに『落語家見習い残酷物語』(晩聲社)という本がある。著者の金田一だん平は立川談志に憧れながら、なぜか三遊亭圓窓に入門してしまったという人物である(その後、破門されて林家彦六門下に移るが、再度破門される)。圓窓のところに「落語家に弟子入りしたのだがどうしたらいいか」と相談したら「勘違いされて」弟子入りすることになった、というのが本人の言い分だが「入門したといっても、実は希望して入ったわけではない。円窓に会いに行ったら、そのまま弟子にされた、と言った方が正確だろう」という失礼千万な文章が示すとおり、本を読む限りにおいては悪いのは百パーセント金田一だん平本人である。その中で圓窓が嫌いな理由の一つに「飯を食わされる」というのが出てくる。

[……]したがって円窓は自分の書斎で遅い朝食もしくは早すぎる昼食を食べるわけだが、一人で食べるのが嫌なのか、何と弟子の私にメシを付き合わせたのである。これには私もいささか閉口した。[……]こんな言い方をしても一般の人はピンとこないかもしれないが、どこかの中小企業へ入社して、そこの社長と毎朝いっしょに食事をすると思えばよい。[……]「いつも一緒に食うんだ。いつも一緒に食うんだ」と円窓は口癖のように言っていた。円窓にしてみれば、それが弟子に対する一つの愛情表現だったのだろう。ところが、円窓には最大の欠点があった。それは、いつも常に不機嫌だということだった。そしてその不機嫌さは私の目から見ると異常としか思えなかった。

ひどい言いぐさである。著者に落語家としての資質がまったくないことは別として、圓窓の愛情表現の仕方が不器用だったのだということはなんとなく感じる。「いつも一緒に食うんだ」と弟子に行ってくれる師匠なんて、いい人だとしか私には思えないのだが。

圓生没後に圓窓は落語協会に戻るが、そのことによって損もした。圓蔵・志ん朝と違って、圓窓は香盤を下げられたからだ。圓窓は一九五九年三月の入門で、柳家小三治が同期になる。本来は圓窓のほうが香盤は上だったが、復帰時に一枚下げられたことで逆転してしまうのである。前出の『聞書き・寄席末広亭』によれば、この処置が決まった後で北村銀太郎のところに柳家小さんが顔を出した際、「小三治が自分のかはいい弟子だからだらう……」と言ったところ「小さん会長は穴でもあつたら入りたいといふ素振りと表情を示した」とのことである。してみれば、圓窓もまたこの騒動で大きな傷を負ったことになる。

圓生一門には落語三遊協会設立時に九人の直弟子がいた。一番弟子が圓楽で、当時の香盤では以下、圓窓、圓彌(故人)、さん生(後の川柳川柳)、好生(後の春風亭一柳)、生之助、円丈、旭生(後の円龍)、梅生(後の圓好。故人)、生吉(廃業)となる。すでに書いたとおり、好生は圓生没後に後を追うようにして自殺、『御乱心』によれば生吉は三遊協会発足時のごたごたの中で先行きに希望が持てずに廃業したのではないか、とのことである。弟子同士の相談で本心を表さなかったために変人扱いされたのが旭生で、彼の真意が判る場面も本の読みどころの一つになっている。圓龍と改名した後に『円龍の下町人情味処』(山と渓谷社)などの著書を発表し、現在も体調はあまりよくないようだが現役として活動中だ。

圓彌についても『御乱心』は悲劇を紹介している。師匠没後に落語協会へ復帰した際、円丈たちは圓彌門下に入って一致団結し、三遊亭圓生一門という伝統を継承しようとした。しかしそれが認められず、協会の預かり弟子という形で復帰することになってしまったというのである。二ツ目以下の落語家は一家をなすことが認められず、誰か真打の身内となるのが決まりであるから、これは異例の処置といっていい。いうなれば親を亡くした兄弟が親戚がいるにもかかわらず、施設へと引き取られるようなものだ。ここにも円丈の絶望感の由縁がある。三遊亭圓彌には元の師匠である春風亭柳枝を襲名するという話があったはずだが、果たせぬままで終わった。決して恵まれたとはいえない芸人人生だったと思うが、それを感じさせない洒脱な雰囲気をまとった人だった。

三遊亭さん生こと川柳川柳は、圓生門下でもっとも早く売れながら、「ゲテモノ」として師匠に敬遠されたために出世の機会に恵まれなかった。大量真打制度で昇進を果たしたため、披露興行にも圓生が出演してくれないという悲哀を味わったのである。八十二歳という高齢になってもいまだ現役で、寄席に出演し続けている。『寄席爆笑王 ガーコン落語一代』(河出文庫)として自伝が出ている。『御乱心』とも共通するところでは、円丈から新協会のことを知らされた川柳が電話で古今亭氏ん朝に電話をしたことが揉め事を引き起こしたことになっている。志ん朝が圓生に「古い弟子に相談がないのは困ります。師弟一丸でないと」と苦言を呈したところ、事を壊すつもりか、と師匠ならぬ圓楽からこっぴどく叱られたというのである。このことが遠因となって川柳は一門を離れることになる。伝記は騒動についてあまり詳しく書いておらず、そのために全体のトーンは暗くない。

落語協会分裂騒動は、戦後の落語界で初めて表面化した内紛事件であった。『御乱心』が三遊亭円丈による一面的な記述、心情吐露の本であることは間違いないが、同書から照射された光によって映し出されるものは多いはずである。絶版の現状はあまりにももったいなく、一刻も早い復刊が待たれる。なお、今回は都合によって言及することができなかったが、当事者の一人である五代目三遊亭圓楽も『圓楽 芸談 しゃれ噺』(白夜書房)の中で協会分裂騒動について語っている。機会があれば、そちら側の見方も紹介したい。

旧い本の話が二回続いたので、次回から新刊の話に戻る予定である。よろしければまたご一読を。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く派列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

スポンサーリンク

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
スポンサーリンク