幽の書評VOL.3 岩井志麻子『嫌な女を語る素敵な言葉』・森山東『お見世出し』

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嫌な女を語る素敵な言葉 (祥伝社文庫)

どこかで誰かがうまくやっている。顔の見えない存在へ募らせる憎悪が、現代人の心を荒ませている。

岩井志麻子の初期作品を読んで、これは日本固有の差別構造に立脚していると書いたことがある。デビュー短篇集『ぼっけぇ、きょうてぇ』以降の、いわゆる岡山ものとは、前近代的な村落共同体が、閉鎖社会であるがゆえに村落内部で生じた歪みを解消できず、かえって増幅させていく悲劇を描いたものだった。岩井志麻子が〈ホラー・ジャパネスク〉の旗手と目されたのは、つまりそういうことだったと私は考えている。

その後、岩井は性愛小説『チャイ・コイ』の成功が示すように作域を大幅に広げ、岡山ものの作家というイメージを払拭してきた。したがって、本書を初期作品と関連づけて読む人は少ないだろう。収録作の登場人物たちは都会の住人ばかりであるし、そこには日本的なものの影はかけらもない。主題となるものも、嫉妬や絶望といった私的な感情がほとんどである。しかし差別構造を描いた作品に通底するものを持つ作品集であることは間違いない。

本書の収録作品に蔓延する気分を一言で表すなら「どこかで誰かがうまくやっている」だろう。たとえば「あまり聴きたくない過去」。この作品の主人公は、アイドルで売り出され、そこそこのヒットは飛ばしたものの一発屋で消えた女性である。今は、アイドル時代の幻影を買ってくれる男にすがって生きている。アイドルは金次第で抱くことができる。そんな噂を聞いたことがある人は多いはずだ。どこかで誰かがうまくやっている。

「ささやかな不幸とひそやかな美人」もそうだ。遅咲きの美人と言われた女性が、かつてのクラスメイトを見返すため、美人としての地位を上りつめようと躍起になる話。美人であることが、成功へのパスポートにつながる。それが彼女の信念である。やはりどこかで誰かがうまくやっているのだ。

岩井がこの作品集で採り上げたのは、自我が無限大まで肥大した現代人のエゴイズムである。インターネットが普及する以前から、この世で起きている出来事のすべてを知っていなければ気がすまないという人間は存在した。都市伝説という、地域性に限定されない噂話が流布するようになったのはそのためだ。かつて共同体が閉鎖社会であったころは、誰もが心の黒い淀みを内側に向けるしかなかったが、今は違う。不特定多数の誰かを憎むことができるからだ。

どこかで誰かがうまくやっている。そう信じて憎悪を募らせている人がいる。「いじらしい殺意」は、インターネットの匿名掲示板が仲介する極めて現代的な話だが、顔の見えない誰かを憎むという奇怪な心性を描いている。その憎悪は、簡単に矛先を変えて内部の人間を傷つける。現代の怪談とは、そうした状況から生まれるものであるということを岩井は示すのだ。

お見世出し (角川ホラー文庫)

可憐な舞妓が語る恐怖の物語。伝統社会の住人たちの胸に去来する思い、そして30年前の非業の死

同じ日本ホラー小説大賞短編部門への応募作である岩井志麻子「ぼっけえ、きょうてえ」と、森山東「お見世出し」。前者は第6回の大賞を受賞し、後者は第11回の短篇賞に留まった。「お見世出し」は、割を食った観がある。「私」が聞き手に語る、という小説の構造が、「ぼっけえ、きょうてえ」と共通している、という声が選考委員から上がったようだからだ。ついでにいえば、語りが方言であるという点も共通である。

「お見世出し」の語り手を務めるのは18歳の舞妓だ。小学生にして花街に飛び込んできた綾乃は、「仕込みさん」として舞妓の修業をするうちに、お茶屋のおかみなど周囲の年長者がみな、自分を「幸恵」という少女に重ね合わせて見ていることに気づく。幸恵は、30年前に非業の死を遂げた仕込みさんだったのだ。やがて綾乃は、晴れて「お見世出し」の日を迎える。その日から舞妓の名を貰い、一人前として認められるのである。だが、おかみは綾乃に慄然とするようなことを頼んできた――。

本編の根幹には30年前の事件を巡る因縁話がある。そこだけをとってみれば非常に古典的な怪談小説であるが、作者は1つ独創的な試みをしている。レトロとモダンのミクスチャーである。

たとえば自分が30年前に死んだ少女に生き写しだと知った主人公は、こう一人ごちる。

――「幸恵パート2」みたいに見られるのはいやなこっちゃ

また、別の収録作である「お化け」では、霊感のある舞妓が映画「シックス・センス」の登場人物に喩えられる。語りの中に新旧両レベルが混合して存在するのだ。

怪にはしかるべき出現の舞台というものがある。だが現代社会では怪が潜みうる暗がりというものが失われいるため、怪を語るには、まず人工的な暗がりを創出しなければならないのである。森山はそれを古都の伝統社会に求めた。そして語りという表現形式を用いて、怪が顔を出す扉を現実の中に切り出したのである。この手法は、むしろ第10回の同大賞受賞作である、遠藤徹『姉飼』に共通していると私は考える。

森山は残酷美をさらりと書くのも巧く、たとえば「首のない千松の体が、線路脇の砂利の上で逆立ちをしていました」というように、簡潔な表現によって凄惨な光景を描き出してみせる。残酷美の向こうに、エロスをほのめかせていることが成功の一因だろう。収録作3編には、官能が残酷美に接続される場面が必ず登場する(だから花街が舞台なのか)。「呪扇」などは、伊藤晴雨の責め絵を模したものと言われても信じてしまいそうな内容である。現代人にとって、エロスは唯一無二の身近な身体感覚だ。作者はそれを恐怖の演出に利用することの利を熟知している。

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