芸人本書く派列伝returns vol.15 毒蝮三太夫・塚越孝『まむちゃんつかちゃんの落語にラジオ』

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

落語にラジオ―まむちゃんつかちゃんの

前々回のこの欄で三遊亭圓丈『御乱心!』(主婦と生活社)を取り上げたが、その際に本が発掘できなかったので五代目三遊亭圓楽『圓楽 芸談 しゃれ噺』(白夜書房)について触れずじまいであった。こういうときは時間をおいて探すといいもので、倉庫に入って棚をいじってみたら嘘のようにあっさりと見つかったのである。

第五章「圓生、そして一門」にそのことについての記述があるのだが「それにしても、あの騒動ではずいぶんあたしもいろんなこと言われたり書かれたりしました」「でも、反論したってしょうがないですし、言いたくもないですから、いままでずっと黙っていました」と消極的な否定をするのみで特段着目すべき記述はなかったことをご報告しておく。強いて挙げるならば、師匠・六代目三遊亭圓生に落語協会脱退を焚きつけたのは「折しも談志がうちの師匠に、『この際、こういうメンバーを集めて、新しくこういう落語協会を作ったら、師匠の名前がいっそう輝きますよ』って薦めたらしいんですよ」ということであって自分は関与していないと主張しているくらいだろうか。ああ、この人は騒動をもう過去のものとして割り切っているんだな、と思った次第である。それはそれで処世の道だ。

それに付随して別の発見があった。落語協会分裂騒動ではなくて、談志の参議院議員立候補の一件についてである。

毒蝮三太夫&塚越孝『まむちゃんつかちゃんの落語にラジオ』(彩流社)は、2007年に刊行された本で、前半が毒蝮が深く関与した落語の世界、後半が二人が主戦場とするラジオについての話が中心になっている。落語に関する部分は、ほぼすべて毒蝮と親交の深かった立川談志についてのものだ。

ここでもう一度振り返っておくと、毒蝮三太夫と立川談志は無二の親友であった。生年はともに1936年、中卒で五代目柳家小さんに入門した談志に対し、毒蝮は12歳で舞台「鐘の鳴る丘」出演と、こちらのほうが早い。その後もラジオや青春映画に出演し、日本大学芸術学部に入学するころにはすでに芸能界でキャリアを積んでいた。一方の談志は前座名・小よしのころから一頭群を抜く存在であり、小ゑんとして二ツ目になったころには若手のホープとして期待される存在になっていた。真打昇進こそ後輩の古今亭志ん朝、三遊亭圓楽に抜かれたものの、キャバレーにおけるスタンダップコミックやメディア露出などの実績では他を寄せ付けず、1965年に発表した『現代落語論』(三一新書)は後に落語家志願者のバイブルとして崇められるようになる。

二人の交点として有名なのは1966年に放送開始された「笑点」である。談志は同番組の立案者であると同時に初代司会者、毒蝮は三升家勝松(現・桂文字助)に代わって二代目の座布団運びを務めた。本書の毒蝮談話によれば当時二ツ目だった勝松では真打の兄さん方の座布団をもぎとるような乱暴な真似ができなかったため、落語界のヒエラルキーとは無関係の彼に声が掛かったのだという。もちろんその時点で、談志との間には親交があった。そのへんのことを談志は初期の著作『勝手にしやがれ』(桃源社)ではこう書いている。

俳優とか、歌い手とか、芸界の連中で寄席の仲間と親しくつき合っていて、よく楽屋に遊びにくるのも多いが、彼等がそれなりに通ぶって喋る会話は、まづは素人で聞くにたえない。(中略)ところがこの石井伊吉は例外で、まごまごすると噺家がふき出すような洒落を飛ばし、笑わせて、そのくせ嫌味がない。

平気で寄席の楽屋へぢリをし、文楽(先代)、円生、小さん(先代)等の師匠連に

“オヤ、来てますネ”てなことをいわれている。

この分を弁えた慎み深さ、そして自分を衒わずにさらけ出して見せる人懐っこさを、落語に最も近いところにある江戸っ子気質として談志は愛したのだろう。

お気づきの方も多いと思うが上の文章では毒蝮三太夫ではなく、前名であり本名でもある石井伊吉として談志は綴っている。毒蝮三太夫への改名が「笑点」番組内で行われたのは1968年のことだが、実はその7、8年前から談志は芸人として寄席に来ることを毒蝮に勧めていた。毒蝮三太夫という名前もその中のどこかで出てきたものであり、突然につけられた名前ではないのだ。強烈な印象を残す代わりに役柄が限られてくるであろうこの名前を受け入れた経緯を、毒蝮は『落語とラジオ』でこう語っている。

まむ★でも銀座の「美弥」で口説かれて、一番の決め手は、ハッキリとものを言う談志がね、ここまでオレに薦めるのは、「ホントにやれよ!」って言ってるんだなってことがわかったのよ。思いつきじゃないってことがね。それだったら受けてやろうじゃないかってね。

そのまえに「美弥」で二人でカウンターに座ってね、「おまえ、いま『ウルトラマン』でいくらもらってる?」って聞くのよ。当時、昭和四十一年で人気はあったよね、視聴率も三〇パーセント超えてんだし。週一回だから月四本。でもギャラは十万もいってないと思うよ。だから、手取りはもっと安いよね。でもまあ「十万くらいだ」って言ったわけ。そしたらアイツは、「そうかぁ、じゃあオレが毎月十五万保証する」って言ったの。だって、あいつは稼いでたからね。若手の寵児ですから。

その言葉を信じて石井伊吉は談志の采配に身を委ね、毒蝮三太夫への転身を遂げる。決して役者の道を放棄したわけではなく、毒蝮三太夫という役柄を常時演じることを受け入れたのだ。現在の毒蝮はラジオのパーソナリティーとしての顔が有名だが、そういう意味では役者であり続けている。生前の談志は、自分の一番の名作は毒蝮三太夫と語っていたという。

こうした厚意に報い、毒蝮は談志との友情を大事にしていく。ご存知の方も多いはずだが、談志は一時期、毒蝮三太夫が社長を務める「まむしプロダクション」に所属していた。本書によればそのきっかけは談志が参議院議員となったために自身の芸能プロダクション「談プロ」が使えなくなったことだという。一時期のまむしプロは大所帯で、談志の他に師匠である五代目柳家小さん、その息子の柳家三語楼(現・六代目柳家小さん)も所属していた。その運営に関するエピソードや「アイツ(談志)を殺そうと思ったことが三度ある」という話などもたいへん興味深いのだが、ここでは省略する。ぜひ現物を当たっていただきたい。

一つだけ紹介しておきたいのが、冒頭に書いた参議員議員立候補の裏話だ。

談志は1969年に第32回衆議院選挙に東京8区から立候補して落選、その後1971年に第9回参議員選挙全国区に出馬し、見事当選を果たしている。ぎりぎりの50位でようやく滑りこみ、記者会見で「真打は最後に来るものだ」と言ってのけたという逸話は有名である。6年間の任期においては一旦自民党佐藤派に属すが、三木内閣のときに沖縄開発政務次官に就任し、二日酔いで会見に臨んだことが問題視されるというスキャンダルのためにわずか36日で辞任したことがきっかけで離党する。自民党が守ってくれなかったからである。党を出ると議員会館でもそれまでの部屋にはいることができず、物置のような小さなところに追いやられる。このときの立場を談志は、まるで居残り佐平次のような、と表現した。

その次の選挙に談志は出ず、結局議員生活は1期6年で終わった。不出馬の記者会見を談志は当時の東宝名人会で開き、師匠・小さんの他に落語協会会長であった圓生を後見として立てた。その威光に気圧されて詰めかけた記者たちは意地悪な質問ができず、会見は無事に終了する。実はこの演出は、毒蝮が考えたものだという。談志が会見に酒を飲んで現れることを防ぐために前夜から帝国ホテルに缶詰めにし、原稿も作ってそれを読ませ、余計なことを言わせないようにした。

まさに参謀として親友を支えたわけだが、それだけではない。実は談志は、二期目の選挙に出るかどうか迷っていた。議員は十年やれば年金が出るようになる。それを貰ってから辞めても損はしないからである。しかし毒蝮は、一期で名前に傷がつかないうちに辞めるべきだと考えた。前回の選挙も50位であって余力があったわけではなかった。実弾を準備できればいいが、その余力もない。であれば落選という瑕がつかないうちに潔く自分から身を引くべきだという考えである。後に談志は現役の政治家と対等に交際するようになるが、それはこのときの選択が正しかったからだろう。毒蝮は同じく政治家に転身して講談界に戻れなくなった一龍斎貞鳳を例に引き、落語界に籍を残しながら見事に地位を守り抜いた談志の生き方を肯定している。

さて、出馬・不出馬を決めるにあたっては、意志決定をしたのは談志本人だけではなかった。毒蝮を含む支援者、三遊亭圓楽や月の家円鏡(のちの八代目橘家圓蔵)、マヒナスターズの松平直樹らが集まって議論が行われたのである。談志の母が出馬に反対だと知っていた毒蝮は、不出馬を主張した。最終的に結論は投票に委ねられた。そして一票差で不出馬に決定したのである。談志は表決の瞬間は席を外しており、結果が出た後で戻って来た。

まむ★オレはもう、オレの意見がとおったもんだから堂々と「じつは選挙に出ないということに決定したよ」って言ったんだよ。そしたらアイツ、「そうかぁ、それでいいよ」だって。そこが素晴らしい、江戸っ子!

つか▼未練を残さないんですね。「何でだよ」とも言わない。「誰がそんなこと言ったんだ?」とも言わない。

まむ★ひとっことも言わない! 「おまえがやめさせたんだろ?」とも言わない。「よかったよ、じゃあやめよう!」って。それで、みんな肩から力が抜けたね(笑)。

談志の人生の重要な岐路に毒蝮は立ち会ってきたのだ。その他にも落語協会会長時代の元弟弟子・鈴々舎馬風が、三語楼の六代目小さん襲名披露興行開催にあたって談志に声を掛けてきたという話も興味深い。兄弟子に口上の場に並んでもらえないかという依頼を、馬風は協会と談志の両者と対等に話すことのできる毒蝮に持ち掛けてきたのである。そのときの毒蝮の、談志の気持ちの汲み方、そして協会に対していかに応えるかという配慮は見事というしかないものだった。談志が遺した名言の一つに「親切だけが人を動かす」があるが、それはまさに毒蝮三太夫という人を指したものとしても過言ではないように思う。

悪友、腐れ縁という言葉があるが、本当の友人とは談志と毒蝮のように、互いの距離を綺麗に保ちながら、いざとなれば相手の心の中に分け入ることが出来る付き合いのことを言うのである。親友の心を最もよく知っていた者という意味では毒蝮三太夫は立川談志の分身といってもいい存在だった。毒蝮三太夫を知ることは立川談志を知ることなのである。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く派列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

スポンサーリンク

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
スポンサーリンク