小説の問題vol.21 藤原伊織『てのひらの闇』

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てのひらの闇 (文春文庫)

あまり大きな声では言えないが、私も実は昼間会社勤めをしている人間だ。常識よりも社是が優先される会社組織の中で、自我を崩壊させずに生き抜く難しさは、重々承知している。自分を偽るのではなく、第二の自分という人格を作ることが、会社社会を生き抜くための秘訣だろう。藤原伊織『てのひらの闇』は、そうやって懸命に「会社人間としての私」を演じている人にこそ読んでほしい一冊。ある意味今年のベストともいえる。

主人公の堀江雅之はタイケイ飲料宣伝部に属し、自社CMなどの制作を担当しているが、あと二週間で会社の早期退職募集に応じて会社を辞めることになっている。彼の階級は課長だが、一部上場企業の社員としては異色の経歴の持ち主。元は制作会社に務めていたが、タイケイ飲料がらみである失策を犯し、職を失いかけた。その時逆に堀江を救い、タイケイ飲料に就職させたのが、当時の宣伝部長であり、現在は会長職にある石崎博久だったのである。つまり、彼は組織になじまない野武士のような社員なのだが、おそらくそれで上司の不興を買ったのだろう。

その堀江が石崎に呼び出され、特命を受けた。石崎が偶然ビデオで撮影した人命救助の決定的な現場映像をCMに使えないか、検討してほしいというのだ。早速確認作業を開始した堀江だったが、映像の背景には、きな臭い企みが存在していた(雑誌掲載時の題名『ホワイトノイズ』はそのことを表している)。そのことについて堀江が石崎に推理を伝えた夜、石崎は突如として自殺、すべては曖昧な霧の中に閉ざされてしまった。会社人生に最後のけじめをつけるべく、堀江は単身捜査を開始する。

ここで語られるのはバブル期に歪められた倫理とその清算に悩む企業の姿で、一種の企業小説としても優れた筋立てになっている。またサイドストーリーとして、ある男女のあまり普通ではない形の愛情関係も描かれたり、堀江が通うバーを経営するユニークな姉弟が登場するなど、総体として秀逸なハードボイルドとして完成度の高い小説である。しかし、私がこの小説で推したいのは、その部分ではない。『てのひらの闇』は、大人のために書かれた、極めて良質のおとぎばなしなのである。

それがはっきりするのは、六七ページだ。ここで、堀江の秘められた過去が登場人物の口から明らかにされるのである。それを読み、私は思わず声を上げてしまった。

(こんな会社員いるわけない!)

作者藤原はここで読者に仁義を切ってみせているわけだ。これは存在しない男の話です、しかしこういう男にしか語れない文学が世の中にはあるんです、と。間違いなく疲れたサラリーマンの目から見れば、これは快哉を叫びたくなるような人物造型だ。マンガのように荒唐無稽ではなく、しなやかに組織を抜けだしていく男。三二七ページで堀江が切る啖呵の歯切れの良さを見ていただきたい。そして一八三ページで堀江が人から示される信頼の厚さ。これらは組織に埋没した会社人には不可能な、人間回復宣言なのである。

もちろん、堀江の世界が無機質な現実とは相反するものであることは間違いない。彼の父の壮絶な最期は、人が夢だけで食えた時代の終焉を象徴するものだろう。だがこの刹那だけは生命の炎が鮮やかに燃え上がるのである。その瞬間を描く藤原の文章は相変わらず美しい。これは散文詩なのではないか、と思わせるほどである。だが決して美文に流れるわけではなく、そこここで暮らす生活人の身の丈に合った言葉が選ばれ、軽やかな衣になって紡がれていく。一つ一つの文章を追うだけでも、たまらない愉悦がある。ひとときの読書を楽しむなら、ぜひこんな一冊をお薦めしたいと思う。

(初出:「問題小説」1999年12月号)

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