小説の問題vol.30 「小体で小粋で」吉川潮『浮かれ三亀松』・乙一『夏と花火と私の死体』

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浮かれ三亀松

夏と花火と私の死体 (集英社文庫)

吉川潮の小説が好きだ。吉川潮の名前を知らない読者はまさかいないだろうと思うが、春風亭柳朝の一代記を描いた『江戸前の男』(新潮文庫)の作者である。長唄三味線の師匠を父に持ち、音曲師の芸人を妻にするという、氏と育ちの平仄の合った生き方は、当節実に珍しい。ある意味異色の小説家といえるだろう。

そんな人が、江戸前の心意気を語ると実にこころよいのである。

試みに一文を引用してみよう。

江戸っ子は「小」を好み「大」を嫌う。小ざっぱりとした髪型に小ぎれいな服装をして、小腹がすくと小体な小料理屋の小座敷に陣取る。日々食するのは鰯や沙魚といった小振りな魚である。反対に大仰な振る舞いや大時代な言い方、大げさなこと、大風呂敷を広げること、大味な料理を嫌う、道普請がよくない江戸の町では大雨、大風は仇だ。

立て板に水、というのはこのことで、読んでいるうちにいても立ってもいられなくなってくる。これは、吉川の新作『浮かれ三亀松』の一節である。『江戸前の男』『江戸っ子だってねえ・浪曲師廣沢虎造一代』(NHK出版)に続く、江戸前芸人の一代記小説だ(柳朝も虎造もちらっと出てくる)。

野暮を承知で書くが、この小説の主人公である初代の柳家三亀松は音曲師の芸人で、昭和のころにたいへんな人気があった人である。よく知られているエピソードに、とにかく人気があって、どこの演芸場でもプログラムに「御存じ」と書かれた、というのがある。本来ならそこには「漫談」とか「音曲」とかいう言葉が入るべきなのだが、それが「御存じ」だけで通るというのがすごい。そんな芸人は他にいない。

この小説の中でも存分にその芸の魅力は紹介されているが、非常に色気のある芸風だったらしい。三味線片手で高座に現れ、乙な都々逸を唄うのである。その合間あいまにはさみこむのが、端唄、新内、さのさで、そこに歌舞伎役者や映画俳優の形態模写まで入れると、思いがけないものを見られたお客が大喜びしたという。色っぽいだけではなく、時代の流れを敏感にとらえた、ずいぶんモダンな芸風でもあったのだ(そういえば、二十年ほど前に小林信彦が三亀松をさして、日本で最初のスタンダップ・コメディアン、と評している。慧眼なり)。

三亀松は本名伊藤亀太郎、明治三十四年九月一日の生まれである。深川・木場町の川並職人の家に生まれ、幼いころから芸事が好きで、小学校に上がるころには端唄の「木遣りくずし」を唄うようになった、というから、かなりませた子供だったようである。父の仕事である川並とは、手鉤一本で材木の整理仕分けをする職人のことで、かつての木場には欠かせない存在だった。今では材木の角乗り芸を行事で披露するくらいで盛時の面影はまったくないが、そのころの木場ではもちろん花形の職業である。亀太郎も最初は父と同じ川並を志すが、芸事好きは消すに消せない性分だったらしく、やがて必然的に芸人の道に入ることになる。

吉川は柳家三亀松が出来上がるまでをじっくり書き込んでいる。三亀松の根底にある粋で鯔背な深川っ子の気質が開花するさまを描くのはもちろんだが、彼を取り巻く女たちとの色事を紹介していくことも忘れない。

深川はいわゆる新開地だから、芝や神田の人間から、「川向こう」と馬鹿にされる土地柄だった。だがそれゆえに、他の土地の人間に文句を言わせないよう、より江戸っ子らしくあろうとして奮発することになる。気風のよさを売りにして、人に頼まれたら否とは言わない、それが深川の気質であり、すなわち深川おんなの美徳でもあった。たとえば、修業時代の三亀松の面倒をみたおのぶという女性もそんな深川おんなの一人であり、何度も夢破れて帰ってくる三亀松を温かく迎えるのである。そうした女の情が三亀松の芸を色っぽく育てていくくだりが、本書の読みどころである。

実はこうした女たちとの関係、ことに芸者や娼妓といった花柳界の女性たちとの関係を通じて小説を書くという手法は、明治以降の近代小説でずいぶん重宝されたものである。そういった小説を総称して花柳小説と言う。そして、花柳小説が近代小説の発展のために果たした役割は、無視できないほど大きいのである。

ここは丸谷才一の「花柳小説論ノート」を援用してしまおう。つまり、明治以後の日本の社会では、身分や階級の違う人が自由に出会うということを制限されていたため、さまざまな人間の邂逅や離別、それによって生じた愛憎の模様を描くという、近代小説の手法を行うことは、極めて難しかった。その中で、花柳界だけが限定的ながらも自由な出会いを保証する場所であったため、花柳界を舞台にした小説が多く書かれたのだ--、というのが丸谷論の骨子だ。

これは感覚的にもうなずける論理である。吉原通いをすることが人生勉強にたとえられたり、廓ばなしと呼ばれる花柳界ものの噺が寄席で喜ばれたり、という戦前までの風潮は--女性には不快に聞こえるかもしれないが--花柳界を擬似的な自由空間として尊ぶ気持ちから起こったものである。その中では、現実のしがらみを離れて自由な人間関係が可能である、という一時の夢を見ることができたのだ。重苦しい不自由さに包まれた戦前の社会においては、その夢なくしてどのような空想が可能であったことか。

さらに言うならば、そういった擬似的な自由空間を求める気持ちは、何も花柳小説だけに限ったものではない。例えば戦後の一時期に流行った明朗な青春小説は、若者の生活がイデオロギッシュな運動に圧迫されていた時代の産物だし、一九五〇年代のアメリカでSF小説が大ブームとなった背景には、当時の赤狩り旋風があることは間違いないだろう。そういった意味では、現在もっとも支持されているミステリーという小説のジャンルには、読者からの熱い期待が寄せられていると考えるべきなのである。

ミステリー最大の特長とは、殺人などの重罪行為を堂々と主題に押し出し、モラルの問題を一時棚上げにした状態における人間の行動を描くところにある、ということは衆目の一致した意見である。これは落語で言う「業の肯定」(立川談志)にもつながった、かなり根源的な欲求に基づいたものであると言えるだろう。

ここでもう一つ上げるとすれば、一作品、一作品で完結した人間関係に対する憧憬という要素もあるのではないか。臨界に達した人間の心理がいかに奇々怪々なものであるかということは、普段われわれが骨身にしみて感じていることであるが、それを説明する言葉の方は諸説入り混じって混沌とした状況にある。どんな論説もうさんくさく、どんな論者も信用するに足る人物に見えないとき、人は現実の説明の方を敬して遠ざけて、仮構の物語としてそれを再構成しようとするものである。ミステリーは今のところ、それにもっとも適した小説形式である、と私は考えている。

『夏と花火と私の死体』は九六年に十七歳という若さでデビューした、天才(という言葉を贈ってしまおう)ホラー作家、乙一の第一短篇集である。一部に熱狂的なファンを持つ作家だが、これが表舞台では初お目見えとなる。

表題作は、ある人によって殺された九歳の少女の死体が語り手を務めるという破天荒な小説であり、死体が主人公の『吾輩は猫である』ものとも言え、かつ落語『らくだ』や映画『ハリーの災難』を思わせる死体移動のサスペンスで読ませる小説なのである。この小説を読めば、モラルだとかさまざまな理論を棚上げした状態で小説というものが提供されたとき、それがいかに胸を衝くものであるか、ということが納得できるに違いない。

短篇集とは言っても、収録されているのはデビュー作である表題作を含む二編だけで、あっという間に読み終わってしまうから、ぜひ手にとって頂きたい。バナナのたたき売りではないが、二編ともが駄目なら、表題作一編だけでも。小体で小粋な小説であることは私が保証するから。

(初出:「問題小説」2000年9月号)

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