小説の問題vol.44 「責任者出てこォい!」有栖川有栖『作家小説』・萱野葵『ダンボールハウスガール』

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作家小説 (幻冬舎文庫)

ダンボールハウスガール (角川文庫)

小説の効用は人を快適にさせることだけではない。人間の感情に喜怒哀楽がある以上、時には「怒」のために書かれた小説があるのは当たり前のことである。わが国ではどうも「哀」の小説の人気が高く、その次に「喜」の小説が受けるらしい。泣かせたり、ほのぼのさせたり、というやつだ。いちばん人気が無いのは「怒」の小説である。

それはそうでしょう。わざわざお金を出して買った本で「怒」りたくなんてないもの、とおっしゃる読者は、たぶん巧く書かれた「怒」の小説をお読みになったことがないのだ。たしかに始終怒りの感情を剥き出しにした小説など、ごつごつした歯ざわりでとても食えたものではないが、そこを巧く料理するのが腕前というものなのである。よい料理人の手にかかれば、鬼薊だって食材になるのだ。例えば獅子文六の『てんやわんや』(新潮文庫)。あれなどはユーモアのオブラートにくるまれてはいるが、実にストレートに「怒」を表現した小説であった。

ところで、映画化されて話題を呼んでいる、萱野葵の『ダンボールハウスガール』は、この「怒」の感情表現に満ち溢れた作品である。九七年に新潮新人文学賞を受賞した、作者のデビュー作だ。

主人公の杏は、二十代の女性である。大学を卒業し、あたりまえに就職したが、会社をやめた途端に奇禍に見舞われた。泥棒に入られたのである。貯金通帳を盗まれ、必死の思いで貯めた二百万円を引き出されてしまった。泥棒は捕まったものの、金は綺麗さっぱり使われていて戻ってこないという。その瞬間から杏はドロップアウトを決意してしまうのだ。

持てるだけの荷物を持って住処を離れ、路上生活者の仲間入りをする。最初はカプセルホテルに宿泊、そして資金が尽きてくれば公園のベンチというように、次第に住処は移っていき、最終的に新宿駅の地下街で、ホームレスの仲間入りを果たすのだ。一時新宿駅西口の地下には段ボールで「建築」された、ホームレスのコロニーがあったが(今は行政取り締まりの結果、新宿中央公園に移動した)、その一画に彼女も加わったのである。

悲惨な境遇でありながら、さほど悲壮感が無いのは、主人公が女性であるという事情によるものだろう。ファーストフード店の裏のゴミ箱から、余りもののハンバーガーを拾って食べるくだりなどは確かにあるが、それ以外は比較的汚穢に満ちた雰囲気はない。母校のシャワールームでそれなりに入浴を行い、クラブの無料招待券が落ちていれば、それを使ってまともな食事を摂るなど、作者は「最低限の文化的な生活」を主人公に送らせるよう、配慮している。

自分と同世代の主人公(作者は六九年生まれ)にそこまでの苦汁を舐めさせることが出来なかった、との見方もできるが、文学的伝統に則ったのだ、との見方もあるだろう。こうしたサバイバルストーリーの元祖は言うまでもなくデフォー『ロビンソン・クルーソー』だが、ロビンソンも思ったほどの苦労をしたわけではなく、無人島を植民地化して結構優雅な暮らしを満喫していたのである。デフォーは文明から隔絶した人間の「野性」を描こうとしたのではなく、人間が野蛮の地を教化するという「恩寵」の小説を書いたのだから当然だ。

女ロビンソンたる杏も、それまでの自分の生き方を決定的に改めてしまうわけではなく、浮浪生活の中でも、同じ自分であろうとして闘い続けている。そのために剥き出しに現れてくるのが、世界に対する怒りの感情なのである。

本当に杏はよく怒る。冒頭から、自宅に入った泥棒への怒りをたたきつけているし、浮浪生活に入ってからも、暇さえあれば周囲に怒りを振りまいている。路上に駐められた自転車の列を蹴り飛ばして将棋倒しにするなどは、日常茶飯事の行為だし、アルバイトで相手にする男女――ダイヤルQ2に電話をかけてくる男や、家庭教師の相手である恵美――にも容赦なく怒りの矛先を向けている。

大袈裟に言えば、この怒りとは、二百万円の盗難によって自分を疎外した、資本主義社会への報復行為なのである。ただし報復といっても、資本主義を否定するのではなく、自分がかつて組み入れられていた搾取形態のミニチュアを作りだし、それによって新たな搾取を行うのだ。この辺ロビンソンの物語に極めてよく似ており、かつ非常に現代的である。この社会では、本当の意味で資本主義の外に出た小説などは書かれようがないのだ。

結末について、一言申し添えておきたい。「報復」を終えた後、杏は怒る相手を失ったかのように見える。そして、物語は一種の母胎回帰のような形で幕を下ろすのだ。怒りの最後に眠りが来るというのは、やがて来る再生を意図したものなのだろうか? だが、杏が目覚める場所は変わらぬ資本主義の世界なのであり、そこから一歩も出ることはない。杏の眠りが安らぎなどではなく、永久に繰り返される堂堂巡りの輪廻の、つかの間の幕切れにすぎないということを読者は読み取る必要があるだろう。

さて、有栖川有栖の『作家小説』は、萱野の小説ほどに剥き出しではないが、やはり「怒」について書かれた小説である。ただし、それは笑いのオブラートにくるまれている。気づかずに甘露を貪ると、中には猛毒が潜んでいるという訳だ。

八つの小説が収められた短篇集であるが、中では「奇骨先生」という作品がもっとも剥き出しの形で「怒」を見せている。ある老作家が、この国の小説と出版事情を巡るあり方に異を唱えるという話で、これのみが単行本書き下ろしの作品である。なるほど、雑誌には載せにくい小説だが、これ一篇のおかげで作品集全体の意図が明確になっている。すなわち、作家という孤独な職業に従事する者の呪詛の声を聞かせることだ。誰に? おそらくは小説製造に携わるすべての職業人、そして小説を愛するすべての読者に。

ただし、剥き出しの怒声罵声を聞かせるほど作者は野暮ではないのでご安心を。冒頭の「書く機械」は、三流作家をベストセラー作家に変えてみせると豪語する編集者と、その犠牲になった作家の物語である。到底ありえないと絶句するシチュエーションを描くことにより、ブラック・コメディになっている。こういう編集者はたまにいるものだが、なるほど、作家には彼らの姿はこう見えているのである。心当たりある編集者はよく読んで反省しておくこと。

続く、「殺しにくるもの」は、ミステリーのあるパターンを踏襲して、意外な効果をあげている。江戸川乱歩の『類別トリック集成』にも収められていない、奇抜な仕掛けが印象的な作品だ。これと、「書かないでくれます?」は、ミステリー短編としてもおもしろい。「書かないでくれます?」は、日常の切れ目から突然不条理な暴力の香りが漂い上ってくる。作者は筒井康隆の「走る取的」などを想定して書いたのではないか? 有栖川の同業者の中には、これを読んで悪夢にうなされる者が出るかもしれない。

「締切二日前」と「サイン会の憂鬱」には、作者自身の体験が反映されているのではないか、と邪推してしまう作品だ。「締切二日前」は、本格ミステリー一筋の作家が、迫りくる締切に恐怖する話である。時間が迫るのにちっともアイデアが浮かばない。あと締切まで何時間あるから一時間あたりに書かなければならない枚数はこれだけだ、と無駄な計算をして苦悶する。主人公は切羽詰まって過去のアイデアメモに頼るのだが、それがまた箸にも棒にもかからない愚作ばかり、という悲哀も経験した者だけがしる苦悩だろう。この小説に有栖川はある黄金パターンのオチをつけているが、まるで作者自身が小説の雲行きに恐怖しているかのような締めくくりかただ。「サイン会の憂鬱」は、生まれ故郷の書店でサイン会を開かなければならなかった作家の不快な体験を描く小説である。

「作家漫才」という遊びの楽しい作品もあるが、全般的に「怒」が昇華され、見事な「愚痴」芸になっているのがすばらしい。末尾の「夢物語」は、作者のもう一つの本音を吐露したものだと思われるが、実に美しい話になっており、これ一篇で読者は救われる。この優しさも有栖川の芸なのである。

(初出:「問題小説」2001年11月号)

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