小説の問題VOL.49 「我らの内なるかえるくんとみみずくん」津原泰水『少年トレチア』 ・村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

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神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)少年トレチア (集英社文庫)

『神の子どもたちはみな踊る』は、一九九五年一月に起きた阪神淡路大震災をモティーフにした連作短篇集である。原型は「新潮」一九九九年八月号から十二月号まで連載された連作『地震のあとで』五篇。それに書き下ろし「蜂蜜パイ」を加えたものが、二〇〇〇年二月に刊行された本書の親本である。

本書に収められた六つの短篇に共通することは、小説に描かれる時間が、阪神淡路大震災の後のものであるということ。登場人物たちは、特に震災の被害者に係累があるわけではない。日本人のほとんどと同じその他大勢の人々である。震災が彼らの人生に与えた影響は間接的なものにすぎない。例えば、「UFOが釧路に降りる」の主人公小村の妻は、震災の報道ニュースを五日間凝視し続けた末に、「あなたとの生活は、空気のかたまりと暮らしているみたい」だと言い残して去ってしまう。明らかに震災が契機ではあるが、直接の原因ではないだろう。

巻頭の「UFOが釧路に降りる」だけを読むと、普段の村上春樹の小説と大きく異なる部分はない。直接的でユーモラスな表現はイメージを豊かに喚起するし、会話の魅力もいつものままだ。女性が初めて会った男性にふしだらなセックスをしようと説得する言葉として、これほどまでに不適切で、かつ説得力豊かな言葉があるだろうか?

「だってそうでしょ? 明日地震が起きるかもしれない。宇宙人に連れていかれるかもしれない。熊に食べられるかもしれない。何が起こるか、そんなの誰にもわからないよ」

むしろ登場人物たちが抱えている心中の空隙は、震災とまったく無関係に存在するものである。「アイロンのある風景」は、海岸で三人の男女が焚火をする話だが、英国の作家ジャック・ロンドンが引用されている。ロンドンは、溺れて死ぬことに生涯病的な恐怖を抱いていた人物だ。溺死が彼の「空隙」だったのである。「アイロンのある風景」のヒロインは、ロンドンを通じて死への親和を感じており、小説の結末では自死の可能性を語りながら眠りにつく。この眠りは必ずしも短時間の死を象徴したものではないようである。それは、同じようにヒロインが結末で眠りにつく「タイランド」を見れば判るだろう。彼女は、不用な言葉を心から除くために眠らなければならない。

本書の性格を端的に表す作品は、最後二つ「かえるくん、東京を救う」と「蜂蜜パイ」だろう。「かえるくん~」では、信用金庫に勤める片桐の前に現れたかえるくんが、東京に大地震を引き起こそうとするみみずくんに闘いを挑むための助力を求めてくる。かえるくんとみみずくんの闘いは想像力の中での闘いであり、かえるくんの勝利のためには、片桐の勇気が必要だというのだ。「蜂蜜パイ」は、震災のニュースを見たことから、「地震男」のイメージに怯えるようになった少女・沙羅のために、作家の淳平が、熊のまさきちととらきちの登場する童話を紡いでいく話である。大震災の凶悪なイメージは、短篇集の最後の作品であるこの小説の中で、少女の悪夢に形を変えることで、初めて具体的に表現される。

それは地震男なの。その男が沙羅を起こしに来て、小さな箱の中に入れようとするの。とても人が入れるような大きさの箱じゃないんだけど、それで沙羅が入りたくないというと、手を引っ張って、ぽきぽきと関節を折るみたいにして、むりに押し込めようとする。

この非人間的なイメージは、地震という天災の表象であると同時に、すべての人知を超えた非情な負性の象徴である。その最も突出したものは、「死」だろう。そういえば、巻頭に引かれたエピグラフのうち、ドストエフトスキー『悪霊』は非人間的な権力構造を描いた壮大な喜劇であり、またジャン=リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』は、主人公が「最低だぜ……」という言葉とともに無意味な最期を遂げる結末でおなじみである。本書は、「死」というもっとも根源的な恐怖との対峙を描くものなのだ。

表題作「神の子どもたちはみな踊る」の中で、対峙の「方法」は語られている。主人公善也が死に瀕した田端さんに語ろうとした言葉がそれである。

でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子供たちはみな踊るのです。

「救済」も「死」も、「表現」を経由してしか現れることがない、というのは当たり前の結論のように見える。「神の子どもたちはみな踊る」の善也は、ディスコで踊るときの姿が「雨降りの中の蛙みたい」であるところから、「かえるくん」と呼ばれている。明らかにそれは、「かえるくん、東京を救う」のかえるくんに重なるものだろう。このかえるくんは善也と違い、『アンナ・カレーニナ』や『白夜』を引用するなど、なかなか衒学的なところもあるのだが、その『白夜』などで語られている「存在の耐えられない軽さ」、すなわち歴史の一回性の前で人間がいかに無力であるか、ということを再確認することが「かえるくん~」の主題の一つなのだ。にも関わらず、営為として人間は「表現」を行っていく。それが「蜂蜜パイ」における童話の意味だろう。

歴史の一回性のもつ残酷さの、ごくごく矮小なモデルとして、世代間の断絶を考えることもできる。ある世代の者たちに共有されたものは、基本的に継承されることはない。若さは徐々に失われる有限な資産である。また下の世代はやがて残虐な敵として台頭してくることだろう。

津原泰水『少年トレチア』は、その残酷な事実を描く小説である。東京のベッドタウンである緋沼市の巨大住宅団地「緋沼サテライト」には、かつて「トレチア」という都市伝説があった。緋沼市で起きた残酷な事件、小動物の虐殺や殺人事件の現場で、必ず目撃される影があったというのだ。それは白い学帽に白い制服を着た少年で、虐殺の被害者に向けて「キジツダ」という言葉を残していた。正体不明で、ただ「トレチア」から来たということだけが判っている奇妙な少年。一連の事件は、「トレチア」の仕業と囁かれ、闇に葬られたのである。

巻頭六〇頁ほどで明らかにされる真相を先に書いてしまえば、「トレチア」とは誰でもない。それは、楳原崇たちの少年グループが残虐行為を働くときの隠れ蓑に過ぎなかったのだから。もし大人たちが行為に気付いたとしても、「トレチア」の仕業であると言えばいい。いずれは、都市に流布する「トレチア」という噂の中に紛れこみ、楳原崇という行為者の実在は問題にならなくなってしまうのだ。

だが十年後、成人した崇には思いがけない応報が待っていた。今度はかつての崇の仲間たちが、「トレチア」に狩られる側に回ったのだ。彼らが支払いをする「期日」=キジツがすぐそこまで迫っていた。

この小説は、具体的な悪が実在し正義がそれに対抗していると考える気楽な二元論者には受け入れ難いイメージを提供するだろう。「トレチア」は言葉の継承の中にしか存在せず、誰もが担い手になりえるし、また誰もが真のトレチアではありえない、あやふやな関係性の所産にすぎないからである。だから「トレチア」は防ぐことができない。ある登場人物の言葉がそれを表している。

トレチアなんかだれでもいいし、殺されるのもだれでもいい。遊びなんだ。今からぼくらは夜の校舎を歩きまわって、適当な人間を選んで、キジツだって、耳許で囁いて、灯油をかけて火をつける。人が燃えるのってどんなだか、みんなで見物するよ。(後略)

『少年トレチア』のクライマックスが『神の子どもたちはみな踊る』と同じモティーフを利用していること、そしてその幕切れの言葉が、「かえるくん、東京を救う」と奇妙な符号を見せていることは、決して偶然の一致ではない。それは一九九五年の大災害と無関係ではないだろうし、知性を備えた作家が人間存在の儚さ、危うさを洞察した結果、必然的にたどりついたものだろうからだ。どんな人間の中にも「トレチア」が潜んでいるし、、「かえるくん」にも「みみずくん」にも容易になりうるのである。それは歴史の中で必然的に産み出される時間の化身だ。

(初出:「問題小説」2002年4月号)

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