小説の問題vol.52「嘘くさい日本の私」 奥田英朗『イン・ザ・プール』・菊地秀行『懐かしいあなたへ』

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イン・ザ・プール (文春文庫)

懐かしいあなたへ (講談社文庫)

子供だまし、といったら失礼かもしれないが、人の不安につけこんでものを売り付けるのだから、そう呼ばれても文句は言えない商売といえるだろう。

何がって? いわゆる「自分探し」のことである。自分の将来について漠然とした不安を感じるのは普通のことで、それを自分だけの特異例と錯覚するから余計不安になるのだ。原因不明の腹痛がずっと続いたら心配だろうが、それが盲腸だとわかれば治療を受けるだけでいい。それと同じことなのである。肉体だけではなく、精神が不調をきたしたときも、自己流治療ではなく専門家による診察を受けた方がいいことに違いはない。

奥田英朗の連作短編集『イン・ザ・プール』の主人公、伊良部一郎は患者にこんなことを言いきる医者である。

「えー、カウンセリング?(中略)無駄だって。そういうの。生い立ちがどうだとか、性格がどうだとか、そういうやつでしょ。生い立ちも性格も治らないんだから、聞いてもしょうがないじゃん」(「いてもたっても」)

異見があるとは思うが、ほとんどの精神病の原因は内分泌異常であり、定期的投薬で快癒することがわかっている以上、神経科の医師として、この発言は正しい。個人の特異性にこだわるより、経験則に裏付けられた科学的治療法を選ぶべきなのだ。さすが。わかってるじゃん。だがページをくるうちに、伊良部の言動は異常性を増していき、読者の彼に対する信頼感はみるみるうちに薄れていく。

「たとえば、繁華街でやくざを闇討ちして歩くとかね。(中略)これはシビれるよ。つまらない悩み事なんて確実に吹っ飛ぶ(後略)」(表題作)

えー、実際に神経科に通院した経験から言えば、お医者さまは決してこういう無責任な発言はされません(当たり前だ)。しかもこの伊良部という男、やたらめったらと注射を打ちたがるのだ。確かに定期投薬は必要なはずだが……、

「じゃあ二本打っちゃおうか(中略)一本はただにしてあげるから」(「いてもたっても」)

さすがにこれは異常である。種明かしをしてしまえば、伊良部は少々尋常ならざるところがある人物なのだ。伊良部総合病院の跡取り息子でありながら、彼の受け持つ神経科が病院の地下に押し込められているのはなぜか(薬局やレントゲン室を置くことはあっても、患者に不安感を与える地下に外来診察室を置くはずがあるだろうか)。また、どうみても四十代半ばという年齢にも関わらず、彼が独身なのはなぜか。こう書けば、だいたい推察はつくだろう。こんな医者が果たして病気を治せるのだろうか。話を読んでいるこちらの方が心配になるくらいだ。

帯に「ヘンなビョーキの博覧会」とあるが、それはいささか不当表示気味である。全五編に登場する病気を列記してみよう。不定愁訴(表題作)、陰茎強直症(「勃ちっ放し」)、ストーカー不安(「コンパニオン」)、携帯電話依存症(「フレンズ」)、失火に関する強迫神経症(「いてもたっても」)。これらはとびきり変な症例というわけではない。もっともありがちな症例であり(除く陰茎強直症)、本誌読者の中にも似たような症例を抱えた人は何人もいるはずだ。本書の売りは病気の奇妙さにはなく、もっと別のところにある。

「フレンズ」を例にとればわかりやすい。高校二年生の津田雄太は、日は一日に二百通を超える携帯電話メールを打ってしまう、明らかな依存症である。とにかくいつでもメールを打つ。授業中に打つ。友達と話しながら打つ。モーニング娘。のコンサートに行きながら、友達に実況中継メールを打つ(携帯電話メールになじみの無い読者には異常に感じられるかもしれないが、このくらいは今どき珍しくない)。その雄太が抱えている不安を言葉にすると、「友達とのつながりが切れてしまったらどうしよう」ということである(これも珍しくない)。

言ってしまえば陳腐な悩みだ。作者はその陳腐さを甘やかしたりしない。「実にありふれて、陳腐な悩みだ」ということをとことん登場人物につきつけるのである。その手先として使われるのが、無神経のかたまりのような伊良部なのである。この「甘やかさない」解決は、最近の小説の流行である。例えば京極夏彦の主人公・中禅寺秋彦による「憑き物落し」。森博嗣(の小説の主人公)による徹底した能力主義差別なども似たようなものだ。読者(及び作中人物たち)は、よほど普段甘やかされて育っているらしく、当たり前のことを当たり前に言われると、ははーっとひれふしてしまうのだ。この雑誌を読んでいるあなたも、年下の部下をチヤホヤするよりは、ビシッと厳しくした方が尊敬されるかもしれませんよ。

作者・奥田英朗は、『最悪』『邪魔』(いずれも講談社)の両犯罪小説で人気を博し、後者で第四回大藪春彦賞を受賞した人だ。その辺の作品を読んだときからずっと感じていたことなのだが、奥田には人間の心情を描くことに熱心ではないというか、冷淡なところがある。「かけがえのない私」なるものなんてきっと信じてないはずだ。本当はとんでもない人間嫌いなのではないか。この『イン・ザ・プール』の装丁だってそうだ。一見、かつての村上春樹の著作みたいだが(「深夜のプールに忍び込みたいと思ったこと、ありませんか?」なんてコピーからしてそう)、よく見ると、「と学会」の本みたいである。意地悪だなあ。

しかし、もし本当に人間心理の本質みたいなものを浮き彫りにしたいのであれば、直截的な心情描写なんていくらしても無駄なのである。そこにはもう少し大がかりな仕掛けが必要になる。例えば、人間はたまらなく孤独な存在で、本質的に理解しあうなんていうことは不可能なのだが、それを指摘するだけならこの通り二行もあれば足りる。しかし二行では読者を説得することが難しいから、小説家はわざわざ長篇小説を書くのである(たいへんなのに)。

だがそれを一言で書いてしまえる小説家が稀にいる。それはただ剥き出しの言葉をぶつけるだけでは無理なことである。十分にレトリックを使い、小説の中に雰囲気を充満させて、もっとも効果的な場面で言葉を放つことによって初めて可能になることなのだ。そういった作家たちを短編小説の名手と呼ぶ。二本の現状を見渡してみれば、いわゆる幻想小説の書き手にそれは多いようである。『ゆめこ縮緬』(集英社文庫)などの絢爛たる耽美小説で名高い皆川博子がそうであるし、伝奇ロマンの第一人者である菊地秀行にも資質を感じる。『懐かしいあなたへ』は、その菊池が九五年に発表した、十四の短編を含む幻想小説集である。

菊地はこの中で多彩な手法を駆使して、「一言」をぶつけるための効果を上げている(中にはその一言さえも省略されている作品もある)。例えば、ギャングと刑事の二人の「おれ」を主人公として書かれた「おれとおれ」は、まるでテレビ・チャンネルのザッピングのようにちゃかちゃかと視点を移動させながら(つまり一般的な小説の基本をまったく無視しながら)結末へとなだれこんでいく小説である。この結末にある二行を剥き出しで投げ出したところで、共感する読者は一万人に一人もいないだろう。だが、この物語の果てにあれば……、納得せざるを得ないのである。

収録作中、もっとも人気を集めるだろう作品が「大きな夫」である。「夫は時々、大きくなるようだ」というなにやら艶笑噺めいた出だしから、やがて妻が眠っている間に巨大化しているらしい夫が「眼球がさし渡し二メートル」「あのサイズの眼球の持ち主は、全長三百メートルに達する」というとんでもない結論が導き出されると、読者はあっという間に作者の準備した異界の方へ連れ去られてしまうのである。幾何の証明問題を解くときに、あらかじめ与えられた図形の上に補助線を引く必要が生じる場合がある。菊地がこの小説で引いた補助線はとてつもなく長い。なにしろ三百メートルなのだ。だがその長さを辿って戻ってきたとき、作者の狙いは実にけれんのない直球勝負であったことが判明する。

普段幻想小説を読んだことのない読者に特にお薦めしたい。異界を旅することの効果は、実はこんなところにあるのだ。

(初出:「問題小説」2002年7月号)

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