芸人本書く派列伝vol.25 ビートたけし『やっぱ志ん生だな!』玉袋筋太郎『粋な男たち』

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やっぱ志ん生だな!

粋な男たち (角川新書)

師匠! 人生に大切なことはみんな木久扇師匠が教えてくれた

落語界一の大物・林家木りんの著書が出ていた。『師匠! 人生に大切なことはみんな木久扇師匠が教えてくれた』(文藝春秋)である。ただしこの場合の大物とは、文字通り新潮がでかいことを指している。林家木りん、192センチもあるのだ。190センチのアントニオ猪木より大きく196センチのジャンボ鶴田にはわずかに及ばない。父が元大関・清國なのだから完璧に遺伝だろう。木りんはてっきり哺乳類のキリンからとられたのかと思っていたが、本書によれば麒麟児の麒麟なのだそうだ。その名の如く頭角を現さんことを祈っておく。師匠・木久扇の知的な一面もよく描けているので、お薦めしておく。

というわけで今回は芸名について、いろいろと。

芸名については機会があったら確かめたいと思っていたことがあった。立川梅春こと北野武、いや、ビートたけしのことである。改めて書くまでもないかもしれないが、ビートたけしは2015年に落語立川流真打の立川談春に弟子入りし、上記の名をもらっている。その後も幾度となく高座を務めているが、風間杜夫など俳優にも落語を余芸に持っている者は少なくない。その中でなぜ、あえて弟子入りという形をとり、名前を師匠につけてもらうという形を取ったか、である。ビートたけしが高座着で舞台に座り、落語を喋っても表立って文句をつけられる者は世の中に一人もいないであろうのに。

立川梅春ではなく、立川錦之助で上がればいい、という落語ファンの声はあったし、たけしが談春に弟子入り、という芸能ニュースを聞いたときは私もそう思いかけた。しかし、それこそ筋の通らない話なのである。立川錦之助はビートたけしが故・立川談志との師弟関係で名乗ることを許された名前であり、2011年に談志が没したことでその権利は消失しているからだ。その経緯を少し詳しく書く。

落語立川流の設立は1983年11月、このとき談志は従来の師弟関係、すなわち落語協会(当時)の前座として入門して階梯を昇ってくる修業をしていた弟子たちをAコースとし、立川流にそれ以外のBコース、Cコースを設けた。Bコースは談志が認める各界の著名人、Cコースは一般人で、しかるべき上納金を収めれば立川の弟子を名乗って活動をすることが許される。

談志はこのとき四面楚歌の状況だった。時の落語協会会長は自分の師匠である五代目柳家小さん(故人)、しかもその芸能生活50周年という節目の年に、親に背いて協会を脱退するという形になったためである。行儀良さを好む日本人の、特に古典芸能ファンにとって、これが快い行動であるはずがない。逆風が吹いて当然のところを救ったのが、このBコースだった。「笑点」以来の盟友である毒蝮三太夫(立川毒まむ志)、当時人気絶頂のビートたけしと放送作家の高田文夫(立川藤志楼)が相次いでBコース入門を表明、これに山本晋也(談遊)、上岡龍太郎(右太衛門)といった有名どころが続いたことで、マスメディアの立川流に対する風当たりは一気に好転したのである。話題を提供してくれる立川流と談志を悪く扱う理由はない。

ただし、そのBコースが有名無実化せず機能していた期間は案外短い。設立後10年くらいだったのではないだろうか。Bコースにも真打は誕生しており、立川藤志楼、ミッキー亭カーチス、立川文志(色物真打)の3名である。昇進は藤志楼は1988年、他の二名は1998年だ。長めに見ても1998年がBコースという制度に意味があった限界であり、その後2000年には整理が行われて、Bコースを名乗る門弟は17人となっている。3人の中で頭角を現すのが最も早かったのが日本大学芸術学部落語研究会の出身でもある立川藤志楼で、「落語チャンチャカチャン」(有名どころの噺を五目でつまんで一続きにして聴かせる)などの先鋭的な芸で話題を呼んだ。八代目橘家圓蔵のスラップスティックな落語が人気を博したあと、立川志らくが頭角を現すまで、この藤志楼が次代の爆笑王候補と目された時期もあったほどである。しかし藤志楼=高田文夫の独演会が定期的に開催されていたのは1990年代前半までで、以降はラジオパーソナリティーや演芸プロデューサーとしての活動が多くなっていく。もしかすると、短かった落語家・藤志楼の全盛期が印象に強く残っているために他のBコースの活動が希薄に感じられるのかもしれない。

この時期、ビートたけしこと立川錦之助は盟友・高田文夫ほど熱心には落語に取り組んでいない。それこそ余技の域であって、単独で会を催すようなことはなかった。当時の多忙ぶりを考えれば無理もなかろう。フライデー襲撃事件が1986年、1989年には「その男凶暴につき」で初めて映画監督を務める。これほど注目される人間が、落語会の規模で収まる活動をできるはずがないし、周囲も許さないはずだ。談志との交友は続いていたものの、それが立川流としての何かにつながることはなかった。そうこうするうちに談志は家元として落語界で特別な存在となり、やがて惜しまれながら没することになる。

談志没後の落語立川流は、直門では筆頭である土橋亭里う馬が代表となり、一門から選出された理事による合議で運営されていくことになった(現在、理事制度は消滅)。立川談四楼『談志が死んだ』(2012年。現・新潮文庫)に直弟子による会議の模様が再現されている。

「それってBもCも原則として、貰った芸名が使えなくなるということですか?」

「そうだ。家元が亡くなって家元制度は事実上消滅しているんだから。だけど例外が二人いる。高田文夫さんとミッキーさんだ。この二人は家元が認めたBコースの真打として立川藤志楼、ミッキー亭カーチスの芸名を貰っている。この二人から取り上げるわけにはいかないだろ。で、Cコースについても、やはり原則論でいくしかねえだろ。貰った芸名は持っててもいいが、たとえ趣味の会であってもその名を使っては出られない、と〔……〕」

落語界のしきたりでは芸人として一本独鈷で存在を許されるのは真打からで、二ツ目以下の芸人はどこかの一門に属することを義務付けられている。わかりやすい例が、先日亡くなった立川左談次の弟子だった立川談吉である。談吉は談志最後の直弟子だったが、2011年に師匠が没した後はその弟子であった左談次の門下に入った。2018年になって左談次が亡くなったときもまだ二ツ目だったため、今度は立川談修一門に入ることになったのである。談修も談志の直弟子で、談吉にとっては元の兄弟子にあたる。こうした縦のつながりを重視し、誰の門下であるかという事実が職業としての唯一のライセンスになるのが落語家の常識である。

この考えに沿ってみれば、ビートたけしが立川錦之助を名乗らず、落語活動再開のために談春に弟子入りしたのは絶対に正しい。Bコース時代に真打昇進を果たしていないのだから、立川錦之助は存在が許されない落語家なのである。梅春を名乗ったたけしは、こうした経緯をマスメディアに対して説明しなかった。煩雑なことを言っても報道はされないと判断したのだろう。

重要なのは、芸名に関する手続きを見れば、ビートたけしという人が落語家の世界を十分理解、尊重していることが判るということだ。その新刊『やっぱ志ん生だな!』(フィルムアート社)は、八代目桂文楽と共に戦後を代表する名人と称されることの多い五代目古今亭志ん生について芸人としての突出ぶりを語り、自らの落語観をそれによって明らかにした芸談である。錦之助を捨てて梅春を名乗った経緯については、あっさりとこう書かれている。

数年前に、立川談春さんの弟子にしてもらったんだよ。立川梅春という名前で、落語をやっていこうと思ってさ。

もともと談志さんに弟子にしてもらっていたんだから、談春さんとは兄弟弟子のはずなんだけど、いまになってさらに談春さんの弟子にしてもらうっていうのが、オイラの謙虚なところだよ。

兄弟弟子とあるが、立川談春の弟子入りは1984年3月、立川錦之助はその前年11月の入門なのだから、コースの違いはあるにせよ、たけしの方が先輩である。そこらをくどくど説明しないのは含羞のなせるわざだろう。落語界にとってイレギュラーな存在である自分が主張していいことと、そうではないことを見極めた結果でもあるはずだ。

また、本書の中でたけしは、題材として語っている五代目志ん生を、ただの一度も「志ん生師匠」とは呼んでいない。常に「志ん生さん」である。先人を師匠と呼んでいいのは伝統を継承する落語家だけであり、外部の人間がそれをするのは本来僭越なことだ。そのけじめがあるからこそ、距離を置いた呼び方になっているのである。

芸談としておもしろいのは、脳出血で倒れてからの志ん生も高く評価している点だ。志ん生の評価は普通、1961年に脳出血で倒れ、リハビリで復帰してからの高座とそれ以前を区別する。晩年はどうしても障害が残り、全盛期には及ばなかったという見方である。これはどの落語家でも避けられないことで、志ん生の盟友である八代目文楽にしても、入れ歯にしてからの高座は駄目だ、といううるさがたの評論家が存在する。

そうした議論がこの本には一切存在しない。滑舌や口調といった細部ではなく、志ん生が落語という芸に取り組む姿勢そのものを評価するという立場をとっているためだが、1947年生まれのたけしが1961年以前の志ん生の高座を生で聴いたわけではないから、という観客としてのけじめがあるからとも思われる。本の記述によれば、北野武少年に若き日の志ん生の良さを説いて聞かせたのは祖母であった。竹本八重子の名で娘義太夫をやっていた祖母の口調は志ん生に影響を受けており、そこから間接的に北野武も薫陶を受けたのだという。

芸談の詳細は実際に本で確かめてもらいたいのでここでは省く。映画撮影になぞらえて志ん生落語を分析したくだりなどはおもしろいし、第三章「普通 ごはんは飽きない」は、寄席芸人のありようについて書いた本連載の前回分に関心を持っていただけた方には、ぜひ一読をお薦めしたい。はしばしには気を惹く表現もあった。たとえば、こんな。

ムダを省いて画を想像させるっていうのは、オイラは映画でもよくやるんだけど、どこか数学の因数分解に似ているんだよね。〔……〕案外、志ん生さんがなすのありえないほどの巨大さを「暗闇にヘタ」という一言に集約してしまうのも、この因数分解に似ている気がするんだ。

短くまとめたが、間に1ページぐらい説明があるのを省略している。くりかえしギャグのことを「天丼」と言う。天丼が人を笑わせるセオリーとして当たり前なのかどうか、発想の転換をこのくだりでは提案しているようにも見えるのだ。

芸名の話を、もう少しだけ続ける。

ビートたけしの弟子は通過儀礼として奇妙な芸名を与えられることはよく知られている。東京都新宿区出身の少年・赤江祐一は「ビートたけしのオールナイトニッポン」で運命の人と出会い、高校時代から追っかけを開始する。卒業後、一般企業への就職が内定していたが、それを蹴ってビートたけしに弟子入りを果たした。通過儀礼として彼に呈示された芸名候補は、「シロマティ」「蟻の門渡り哲也」「玉袋筋太郎」の三つ。人権団体からクレームが来たり、芸能界の武闘派集団に睨まれたりしそうな前二つを除けば、受け入れ可能なのは最後の一つしかなかった。ために、2010年代になるまで、この名前でのNHK出演は許されなかった。全国放送への出演を世間への認知の証と考えるのであれば、長い長い回り道となったのである。

『粋な男たち』(角川新書)は、浅草キッドの大きい方・玉袋筋太郎が周囲にいる尊敬すべき人々や、自身のこれまでを振り返ることで「粋な生き方」について考えた一冊だ。過去にも玉袋の著作をこの連載で取り上げたことがあるが、それらの読者であれば十二分に本書は楽しめるはずである。もちろん予備知識がなくても問題なく読むことができる。

浅草キッドがテレビ芸人としての絶頂期を迎えた1990年代前半、玉袋はホモキャラを演じていた時期があった。実家の両親が同性愛者向けのスナックを経営していたことからキャラクターづけを思いついたものだ。「スナックに行ったらネグリジェを着た親父が出てきて『男の仕事場に子供が来るな』と叱られた」うんぬんのネタもすべてフィクションで、実際は普段着で接待する一般的なスナックだった。

その同性愛を弄るやり方も試行錯誤の一つにすぎず、奇妙な芸名を背負うことになった赤江祐一は、そもそも玉袋筋太郎とは何者なのか、という立案、キャラクターづけから芸の修業を始めなければならなかった。「とにかく、前代未聞の芸名だったから、誰をお手本ににしてどんなロールモデルを描いたらいいのかよくわからなかった」のである。30代後半にはサイクリングやフィットネスに傾倒した時期もあった(著書に『タイガーダイエット』がある。2012年。ベースボールマガジン社)。「スナック愛」を口にし始めたのは当人曰く40代に入ってからだというが、肩の力を抜くことができる現在の姿に到達するまで、何度かの軌道修正があったのである。考えたキャラクター、試みた方向性と本来の自分が融合・分離し、次第にあるべきところに落ち着いていったのだろう。

「粋」という言葉にはいくつかの語義がある。本書で使われている「粋」を言い換えると「含羞」が最も近いように思われる。あるいは「分別」か。

おのれの居所・役回りをわきまえ、決して他の人を不快にさせないように行動する。本書は、そうした共存のありようについての一冊である。立川錦之助から立川梅春に転じたビートたけしの振る舞いについて前段で紹介したが、本書の中で語られているいくつかの遠回りについては、師匠の行動に通じるものが感じられる。前に出ることよりも後ろに下がることのほうが多く書かれている本なのだ。

玉袋筋太郎には長男とのつきあい方について書かれた著書がある。『男子のための人生のルール』(2006年。理論社→現・イースト・プレス)がそれだ。親と子供との距離の保ち方について書かれた名エッセイであり、理想を語りすぎず、具体例に満ちているのが魅力的である。たとえば我が子に異変が起きていないか、おかしな道に踏み込んでいないか、などと気を揉むのであれば二人で銭湯に行き、背中の流しっこをしろ、と説く一節などは説得力に満ちている。同書を著したときは39歳、このあたりからキャラクターとしての玉袋筋太郎が赤江祐一本人と融合し始めたのではないだろうか。相棒・水道橋博士と共に浅草キッドの歩みを振り返った『キッドのもと』(2010年。学習研究社→加筆の上、現・ちくま文庫)、さらに少年期を描いた自伝小説『新宿インベーダー』(2011年。新潮文庫)といった自分をさらけ出すための著書、交友関係を明かした『絶滅危惧種見聞録』(2010年。廣済堂出版)といった一連の著作を経て、現在の〈一般社団法人日本スナック連盟〉会長の玉袋が在る。

玉袋過去の著作を読んできた者は、最後の第6章「家族から学んだ波乱万丈の「粋」」で驚くはずである。家族との関係について、これまで活字にはしてこなかったことを明かしているからだ。その内容については触れないが、最終章を予感させる記述が第1章にあることは書いてもいいだろう。前述の、芸名に関する一節である。玉袋筋太郎になったことを告げたとき、父親の反応は意外なものだったという。「それはいい名前だ。おまえ、たけしさんにいい芸名もらったな!」と手放しで喜ばれたのだ。

芸名を名乗るっていうことは、ある意味では本名と訣別するということでもあるだろ? 親がつけてくれた名前を捨てるというのに、その親自身が新たなに背負うことになる芸名を気に入ってくれた。(中略)尊敬する殿がつけてくれた名前を、親父がことの他気に入ってくれたということは本当にうれしかったよね。(後略)

実の親から芸道の親への結縁のし直し、あるいは赤井祐一から玉袋筋太郎への生まれ変わりは、他の者はどうであれ、当人間ではこのように祝福されたものだった。この幸福感こそが、以降の玉袋筋太郎という芸人の生き方を方向づけたのだ。たかが芸名ではあるが、そこには師弟関係のすべてが集約されている。

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