小説の問題vol.61 「ふたりの作家のグルーヴ感」 横山秀夫『第三の時効』 ・北方謙三『林蔵の貌』

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第三の時効 (集英社文庫)

林蔵の貌 上 (集英社文庫)

私のようにのらくら生きている人間でも、日々の暮らしの中で疑問を感じることはある。以下は最近気になったこと。

一つは、先日刊行されたハワード・ヘイクラフト編の『ミステリの美学』(成甲書房)について。この本はミステリー評論としては古典の域に入る一冊で、読めば大いに知的な刺激を受けることができる。大昔に抄訳本が出たことがある本で、残念ながら今回も完訳ではなく、訳者が取捨選択を行っている。

その訳者あとがきでは現在の書評家に対する不満が激烈に綴られており、特に「ドストエフスキーと小林秀雄などの文学をまともに勉強したこともないような連中ばかり幅を利かせているのが、現在のミステリ書評である」という批判は書評家として耳が痛い。「ディケンズと吉田健一」だったら、私も勉強しないといけないという気がするのだが、そうですか、ロシアの文豪や小林秀雄を読まないといけませんか。ミステリーは奥が深い。

もう一つは、先日の第一二八回直木賞選考会に関する件。今回は受賞作がなかったことはご存じの通りだが、候補作の一つ、横山秀夫『半落ち』について、物語の根幹に関わる設定(Aとする)が「法律で禁止されている訳ではないが」「現実には認められていない」致命的な欠点として、一部選考委員から批判されるという出来事があった。

何がどうと書いてしまうだけでネタばらしになってしまうので詳細は書けないが(新聞報道ではネタを割っていた)、これは明らかに重箱の隅つつきである。作中で描かれたことは、登場人物の一人がAを「望んだ」ということであって、Aが「起きた」と書いているわけではないのである。それが「起きた」と書いてしまえば、事実に反するのだからむろん失格だが、『半落ち』はセーフである。的外れな批判を受けた作者はお気の毒。

しかし、だからといって私が『半落ち』を評価するかというとそうでもなく、横山秀夫の作品としてはむしろ第五回松本清張賞を受賞した『動機』や、第五十三回日本推理作家協会賞を受賞した『陰の季節』などの短篇の方が高水準にあると思っている。『半落ち』についていえば、主人公が黙秘を決め込む動機に必然性がない、などの短篇の題材を長編として書いたための無理が生じている。それぞれの章を独立した短篇として読めばあらは無いのだから、これは作家の資質の問題としか言いようがない。

そこで今回お薦めしたいのが、横山の最新短篇集『第三の時効』だ。横山が得意とする警察小説の分野に入る作品集で、F県警捜査一課の刑事たちを主人公とした六つの短篇が収められている。これがなかなかに興奮させられる一冊である。

表題作は、密通していた人妻の夫を刺し殺して逃亡した男の時効成立をめぐるドラマである。少し法律に詳しい人ならご存じだろうが、被疑者が国外に逃亡した場合、その期間は時効の進行が停止する。この事件では、男が七日間海外に脱出していたため、本来の「第一時効」と七日間後の「第二時効」が発生し、捜査陣は両日に犯人逮捕の最後の望みをかけることになる。ところが、刑事たちを指揮する班長の一人は、「第三の時効」というものが存在すると言い始めるのである。

これは刑事訴訟法の盲点をつく好篇である。故・松本清張には「一年半待て」などの短篇の傑作が数多くあるが、「第三の時効」にはそれらの作品に比肩すべきオリジナリティがあり、語りの技法を含めた質が極めて高い。他の収録作では、例えば「沈黙のアリバイ」が私好みである。物証が少なく自白のみが頼りという公判の法廷において、突然被疑者が自白をひるがえし始める。そのために捜査一課の刑事たちは窮地に陥るのだ。

本書は連作短篇集であり、基本設定で得をしている部分もある。捜査一課の中には個性の違う三つの捜査班があり、互いにライバル心をむき出しにしながら事件解決の件数を競いあっているのだが、その足の引っ張り合いを主題にして描かれたのが「囚人のジレンマ」だ。捜査一課を率いる課長の田畑は、三班が同時に事件を抱える状況において、ある重大な判断を迫られることになり、田畑は苦悩するのだ。アイデアよりもむしろプロットで読ませる作品である。

むろん収録作にはバラつきもある。例えば、監視中の被疑者がいつの間にか密室状態のマンションから消えていたという「密室の抜け穴」は、「沈黙のアリバイ」と似たアイデアが使われており、それだけではかなり弱い。また、子供を手先に使う極悪非道な殺人犯逮捕を描いた「ペルソナの微笑」は、主役の刑事の人物造形に大部分を依存しており、やや脆弱である。しかしそれは「第三の時効」といった第一級の作品と比較したためのあらであり、個々の作品を取り上げれば水準作であることは間違いない。

横山にはこうした良質の短編を多く書いていってほしいと切に願う。短編作家が冷遇される文壇状況で身勝手な願いであると承知はしているが、こうした粒揃いの短篇集をぜひ何冊も読んでみたいのである。なにとぞなにとぞ。

『第三の時効』には、読中に異常なグルーヴ感を覚える部分がある。例えば先述した表題作で「第三の時候」の示唆を受けて、謎が深まった瞬間などがそうだ。われわれのはるか頭上に位置する作者が、読者を思うがままの方向に放り投げていることを感じるのである。身体が可能な速度を超えて意識が先走らされているとでも言うべきか。この感覚を楽しめる小説というのはなかなかない。今月の本の中では、北方謙三『林蔵の貌』がもっともそれを感じさせる小説だった。

間宮林蔵、幕末期に蝦夷地と呼ばれていた北海道を測量して地図を作り、遠く樺太の地にまで足を運んだ人物である。本書の主人公はその間宮林蔵だ。ただし歴史教科書で紹介されるような品行方正な人物として彼は登場しない。何より容貌魁偉である。極寒の大地は彼の体を蝕み、顔面は凍傷痕で覆われた。手の指も木の根のような色に変わり、まっすぐに伸ばすことができなくなっている。初対面の人間なら息を飲むような貌である。また測量一途の生活のため、冬は単身蝦夷地に越冬するという孤独な暮らしを送り、羅針の磁石が狂うことを嫌って身には寸鉄も帯びない。腰の佩刀も竹光であり、危機においては測量に使う分銅を武器にするという。それが北方の描く間宮林蔵である。

物語は、野比と名乗る武士が、伝兵衛という漁師に櫓を漕がせ、小舟で蝦夷地にやって来るところから始まる。野比の目的はロシア艦船の訪問だった。仲介を行ったのが間宮林蔵で、そこから林蔵は数奇な運命の中に巻き込まれていくことになる。伝兵衛は越後の漁師だが、その実は商船を襲う海賊である。この他に水戸藩士の狩野信平という青年が登場するが、彼らは蝦夷地という舞台にそれぞれの夢を託そうとしている。その夢の実現を描くのが前半部の主題である。

もちろん夢を簡単に実現できるほど蝦夷地は優しくない。そこでは生きるための闘争が必要であり、林蔵たちもしばしば生死の危機に直面する。それは、我が子のように愛する飼犬を殺し、その肉を喰らわなければ生き延びられないほどの過酷な場面なのである。北方は、彼らがそこまでして望む夢の正体を容易には明かさず、男たちの行動の果てに浮かび上がるような書き方をしている。そこは行動の小説であるハードボイルドで鳴らした作者の独擅場である。

歴史小説の魅力は、架空の出来事を史実の中にとりこむマジックにあるが、後半部はその魔力が遺憾なく発揮されている。その仕掛けが技巧的に見えないのは、読者が林蔵という男に深く同化し、彼の内的動機を我が物のように感じられるからだ。史実にはない出来事のはずなのに、現実の林蔵もやはりこういう動きをしたはずと首肯させられる。

本書は北方がハードボイルドから歴史小説に活動の軸足を移しつつあった一九九四年の小説である。間宮林蔵ほどの強い意志を持った男を描くのに、現代の世相は窮屈だったのだろう。この小説の翌年、北方は南北朝を舞台にした『道誉なり』を発表し、さらにその翌年からは、『三国志』刊行が開始されるのである。

(初出:「問題小説」2003年4月号)

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