杉江松恋不善閑居 要らない自分をどんどん捨てる

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これは何かというと天竜川駅・かどやの餃子なのです。人間と違ってここの餃子は100%好き。

大人は誰のことも100%は好きになれない。

もし100%ゆだねられると思い込んでいるなら、何か見なければならないことから目を逸らしている。

そんな風に考えるようになったのはやはりある程度馬齢を重ねてからで、成人したてのころはもうちょっと世界を単純に考えていたように思う。好きな人と嫌いな人がいる、くらいの線引きで。個体主義というか整数主義というか。一つ、二つ、と数えられるイメージで人間を見ていて、線引きがその個体間にあった感じだ。

今も同じく好き/嫌いという判断基準だが、線引きの仕方がだいぶ変わっている。部分主義であり割合主義。Aさんの中には好きな部分が95%、嫌いな部分が5%、Bさんは前者が75%で後者が25%とか、そういう風に人を見ている。野菜の悪くなったところを取り除いて料理するときがあるけど、ああいう感じ。さすがに嫌いな部分が90%とかになると、もう好きな部分が10%とかあっても無意味なので、近寄らないようにする。ゴミ箱に捨てる、というのは失礼な言い方になるので、敬して遠ざけるというか。SNSでミュートするというか。

割合主義で考えるというのは、誰の言うことも全ては支持せず、パーセンテージで場合ごとに検討するということでもある。それをするためには、基準が必要になる。何と比べて納得するか、信用できるか、ということだ。他人という自分の外にあるものについての判断基準なので、対比すべきものは自分の中に設けないと意味がない。他人についての判断を第三者に聞きに行くのではメッセンジャーボーイと同じことだ。

そうやって考えてみて、深く納得した。

ああ、内側にある基準にあまり自信がなかったものだから、とりあえず誰かを好き/嫌いで分けていたのだな、と。

あの人は好き、とか、大嫌い、とか言っている分には基準は必要ない。一度好きになったらその人の言葉は全部信用していればいいので、決まった行動パターンを繰り返していれば何も問題はないからだ。

恐ろしいことだが、そうやっていても文章書きの仕事はできる。右から、いや左から流れてきたものを、左、もしくは右にそのまま受け売りしておけば、なんとか形にはなるものである。言葉の成形とでも言うべきか。なんならそこに皮肉な言葉を付け加えれば辛口の書き手になった気持ちになれる。逆にふんわりと糖衣でくるんでみたら、ユーモアたっぷりのコラムニストになったような心地がする。しかも、すごく仕事をした感がある。まあ、作業をしたことには変わりないわけだ。

このへんの空っぽさに気づかず、ずっとベルトコンベア式の頭で過ごすことは可能である。くどいようだけど、それで物書きだってできると思う。だけど、他人という存在の得体の知れなさに気づいてしまうと、こういう単純作業を繰り返しているのが空恐ろしくなってくる。一度手を止めて考えなければいけないのでは、と思うようになる。というか、私はなった。それがいつ頃のことかは、はっきりと言えないのだけど。

ずっと好きだった人が、あるときから頓珍漢なことを言うようになったと感じた。そういうことが何度かあり、何人もいた。最初のうちは、ああ、これが老化とか変質とかいうものか、と思った。自分が素直にうなずけなくなったのは、相手が変わったからだと思い込もうとしたのだ。だが、違うね。

頓珍漢に感じるというのは、最初からそうだったわけである。最初から頓珍漢なことを考えたり言ったりする人だったのに、その部分には自分が目をつぶっていただけのことだ。ああ、そういうところがあるんだね、と最初に切り分けて、その人の頓珍漢%を量っておく必要があったのだ。このことに気づかずに成人しておとなの社会で生きていたのだから、我ながらのんきすぎる。

他人のついての印象が変わるという体験から、ようやく自分に向き合う必要を知った。

自分の発言は今のところ、突き詰めれば「異議なし」か「異議あり」のどちらかしかない。

そういう考え方をする組織で脳が埋め尽くされているからだ。それを改善するためには、脳を入れ替えるしかない。

使えるところだけを残して、あとは捨てよう。

そんなわけで、自分探しならぬ自分捨てを結構いい歳になってから始めたのだった。いや、捨てるところが多いなあ、自分というのは。(つづく)

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