杉江松恋不善閑居 類推と置換で歪んだ考えを排除していく

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積丹半島で食べたウニ。これは一点の曇りもなくいいものであります。

自分があまりにも空っぽなので中身を詰め直そうと思ったことを書いた。

この一連の文章は思い出した順番で書いているので、話があっちに行ったりこっちに来たりするし、実用書の目次みたいに理路整然とした並びにならないので、そこは大目に見ていただきたい。

さて、自分の中身を再充填するに当たって、気をつけたことがいくつかある。

その一つが、歪んだもの、汚染された感覚を中に入れないということだ。そういうものを入れてしまうと、取り返しのつかないことになりかねない。空っぽは空っぽなりに、慎重なのである。

いろいろな言説が流れている。中には歪んだものもある。たとえば、子供に対して大人が振るう暴力だ。私が子供のころは、大人が体罰を行うのは当たり前のことで、親が我が子に振るうだけではなく、学校の教諭が未成年者に暴力を使って言うことを聞かせても、あまり問題にならなかった。

野蛮だと思う。

今にして思えば歪んだことでも、普通であり、見過ごしにされていたのだ。

当時の自分は子供で、それが野蛮なことだと言語化ができていなかった。殴られるのは嫌だが、それを回避しようという方向にしか頭がいかず、大人の非を糺すことができなかった。

どんな歪みでも、自分がその中にいるとわからないことがある。わかっていてもどうしようもないという場合は多いが、そもそも歪みに気づかないこともある。

でも、それでは困る。

いい年をした大人が、気づきませんでした、では済まないだろう。いい年をした大人になっていたので、私も自衛しておかしなことをしたり言ったりしないように用心した。用心しないと、たぶんやってしまう。そんなに賢い頭の持ち主ではないから。

歪みに気づくための方法が二つ。当時の私でもできるようなことだ。

一つは類推である。赤ん坊を殴れば、時と場合に拠らず間違いなく非難を浴びる。赤ん坊は非力で抵抗できないし、声を上げて助けを呼ぶことも不可能だからだ。だから年端のいかない子供が赤ん坊を殴っても叱られる。当然である。

この関係を少しずらす。赤ん坊に少し年を取らせて小学生ぐらいにする。殴った子供は小学生くらいだったのを中学生にする。やはりこれも叱られる。年下の者をいじめるなと言われるだろう。

では、これをさらにずらす。殴られる側を高校生、殴る側を成年者にする。これは教師の体罰と同じことだ。年齢と体力に差があり、一方に他方が抵抗しづらいような権威が備わっている点も同じだ。

だったら、これも不可だろう。赤ん坊に暴力を振るうのがいけないのと同じように、教師が子供に暴力を振るうのも、無条件でよくないことだ。

これが類推である。自分ではわからないことでも、関係の基本的なところに目をつけて、その場合は〇〇だから、というような限定条件になっているものを排していく。そうすると、ごく単純な事実だけが残る。立場が上の者が下の者に暴力を振るうのはどんな場合でも不可ということだ。

もう一つは、置換。類推と違うのはABという関係をBAにひっくり返してみること。もしくはAのみに許される、もしくはBのみが禁じられているという状況をそれぞれ逆にしてみる。

これは前にも書いたのだけど、私は「女刑事」「女検死官」というような表現を使わない。「女性刑事」「女性検死官」も不可。「女」という表現が差別的だからではなくて、「男刑事」「男検死官」という言い方は普通しないということが問題なのである。男女という性があるとして、片方だけにしか使わない呼称があるというのは、それ自体がおかしなことだ。だからこの表現は変だということが置き換えでわかる。「女湯」は変ではない。識別のための表現で「男湯」もある。でも「女優」は変だ。男性の俳優を「男優」と呼ぶのは、かなり限定された使い方のときだけである。これは男女とも「俳優」と呼べば済む。

こういうことが商業的な文章表現の場で意識されるようになったのは、私の記憶では1990年代以降だった。ごく最近のことである。私が物書きの仕事を始めたのはそのくらいからなので、違和感を持たなかった。でも、上の世代には「女~」という表現の使用を忌避することに対して抵抗する人もいた。いわく「窮屈だ」「なじみのある表現を使えないのは物足りない」などなど。さすがに逆差別だ、などと言う人はいなかった、と思う。いたかもしれない。でも窮屈だと感じるのも、物足りないと思うのも、それ以前が間違っているのではないか、という自分に対する問いかけをしていない時点で身勝手なのである。聞く耳を貸さなくていい。

自分の考えることを表現するというのはそういうものだと私は思っている。表現にどんなときでも優先権があるとは思わない。少なくとも。その表現がどういう意味を持つかということをまったく考えず、無邪気にそれを使っていいわけではない。そう考えている。

とても尊敬している書き手がいる。あえて名前を挙げないが、エンターテインメントの書き手としては日本の第一人者と言っていいだろう。その人にやはり表現の問題について聞いたことがある。過去に使われた言葉の中には、現在では差別的と見なされるものもある。過去の時代を創作で描くときには、その言葉を使わなければならないときもあるだろう。そういうときはどのように考えて書くのか。

答えはこうであった。どうしても書かなければならない場合が確かにあるというのは前提として、その表現によって人を傷つける可能性があるということは、少なくともエンターテインメントの書き手としては意識しないわけにはいかないだろう、と。

さらに、こう付け加えた。

そうした問題が存在するときに、直接それを使わないでいかに表現ができるか考えるのが、エンターテインメントの書き手というものではないかと思います。

この姿勢をずっと見習っている。(つづく)

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