芸人本書く列伝classic vol.13 春風亭一之輔『一之輔、高座に粗忽の釘を打つ』

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一之輔、高座に粗忽の釘を打つ (落語ファン倶楽部新書5)

落語の演目の中には、あまりもてなそうな男たちが集まってごしゃごしゃやっているだけ、という話がけっこうある。

「浮世床」「寄合酒」なんていうのがそういう例だ。前者は髪結床で順番を待っている男たちのスケッチである。後者はひさしぶりに集まったので、金はないけど一杯やろう、と算段をする話。どちらもストーリーらしいストーリーというものはない。その場の話の雰囲気だとか男たちのあまり賢くはないけど憎めない性格だとかを、ふんふん言いながら読む噺である。「談志の『鼠穴』を聞いて人生が変わった」なんて話がよくあるけれど、そういう大きな噺だけが落語の楽しみじゃないわけである。そういうどうでもいいような情景を、話者の技量だけでおもしろく聞かせてしまえるところにおもしろさはある。

僕はこういう「もてなそうな男たちのスケッチ」が大好きで、そういうものに行き当たるとたまらなく嬉しくなる。たとえば古谷実のデビュー作『行け! 稲中卓球部』などがそうで、あの「もてなそうな連中がドアの内側から世間をうかがっている」感じは、時代を超えて共有されるものだと思っている。もし原作者の許可が頂けるなら、あの中のいくつかのエピソードを落語に書き換えて、誰かに演じてもらいたいと思っているほどだ。

演者は、春風亭一之輔なんかどうだろうか。あ、橘屋文左衛門(現・文蔵)でもいいです。

今回は一之輔のお話である。その著書『一之輔、高座に粗忽の釘を打つ』(落語ファン倶楽部新書)で一之輔は、自分の持ちねたについてこう書いている。

大体、男同士がぐじゃぐじゃもめたりする噺が多いんですよ。『不動坊』とか『欠伸指南』もそうだし。

私の中でそれらを「部室落語」って呼んでるんです。

運動部の部室の会話みたいな、モテないやつらがぐずぐず言いながら肩寄せ合いながら傷なめあってるような噺が多いですから。

それで「部室落語」。落語は「粋」や「江戸の風」をはらんだものであるとは思うが、それと同時に「野暮」とか「どじ」とかも含んでいるのである。「粋」ばかりに片寄れば、かえって嫌味になってくさくなる。様子の良さばかりが賞賛される落語家の噺を聞くと私は激しい「コレジャナイ」感を覚えるのだが、それは嫌味なところに対する拒絶反応だと思っている。本当に粋な人は幾分かの野暮を内に持っていて、それを隠さないものなのである。

春風亭一之輔は2012年に真打昇進を果たした。落語協会ではひさびさの単独昇進(最近は複数名が一緒に昇進するのが普通なのである)、しかも二十一人抜きの快挙である。抜かれたほうは穏やかではないだろうが、やはり芸事の世界だからこういう実力主義の贔屓はあったほうがいい。一之輔は二つ目時代からうるさいことを言う聞き手の間でも評価が高かったので、この抜擢を批判する声はほぼ聞かれなかったように思う。

『一之輔、高座に粗忽の釘を打つ』第2章で、著者は自身の真打興行披露「五十日の全演目解題」を行っている。落語家は10日刻みの定席興行に普段は出ますが、真打になるとその主任を任せてくれるのです。そこで毎日とりを取って、襲名披露の口上を言う。それを5興行務めたということだ。真打になってから最初の興行であり、かつ、初めての定席でのとりだから、やるほうも気合を入れなければならない。そこで高座に掛けた演目を自分で解説したということですね。

この第2章が、本の中ではいちばんおもしろかった。一之輔の芸能観が、自作の演出を語るという形で自然に現れているからである。たとえば「五人廻し」についてはこう書いている。

普通のバージョンだと、女郎が出て来て、お金渡して帰ってくれって言うんですけど、私は女が出て来ない方がいいんじゃないかなって思うんです。男だけで、スケッチみたいな感じで終わっちゃう方が。

この噺はシチュエーションコントです。キャラクターがそれぞれ強烈で、全員が全員、ただぐずぐず言ってるだけで面白いですから。(後略)

「五人廻し」の「廻し」とは一晩に娼妓が複数の客を取ることである。つめかける客の数に対して娼妓が不足するから、そういうことになるのだ。男たちは「廻し部屋」というものに入れられて、自分が金を出した女が来るのをひたすら待つわけである。はっきり言って間抜けだ。しかもいくら女の来るのが遅くとも(時には来ないことさえある)、文句を言うのは野暮だと言われてさげすまれた。その文句をぐずぐず言う噺なのである。客のところに女が来る来ないといった結果、その間に女は何をしているのかという裏の進行については、もちろん設定をすることが可能だろう。現に時間経過を取り入れ、ストーリーのおもしろさで聞かせる「文違い」などという噺もある。しかし一之輔は、そうしたストーリー性はこの噺に無用でありただ情景のスケッチだけでいいと言い切っているわけである。「部室落語」の一人者の面目躍如たる所以だ。

そうかと思えばなにげない寸景において登場人物の心理に入りこみ、なるほどこうだったか、と膝を打たせるような演出をすることもある。たとえば「欠伸指南」の連れの男に対する解釈、あるいは「子は鎹」における子供の演じ方、これらはいずれも演者がその人物の中にぐっと入りこんだことがあるからこそのものである。私が気に入っているのは「初天神」だ。これは初天神のお参りにでかけた父親と幼い息子のやりとりのスケッチ落語だ。いろいろなものを買ってくれ買ってくれと言う金坊を父親はめんどくさそうにはぐらかすのだが、それが重なったときに、

(前略)金ちゃんがガッとにらんで、

「いいじゃねえかよ、八五郎さんよ」

「名前で呼ぶな」って。

そのへんまで行くと親も子供のところまで下りて来る。子供は背伸びして、こういう生意気なこと言いそうじゃないですか。

「こんなことなら生まれてこなきゃよかった」とか「誰々んちに生まれたかった」って自分も言った覚えがあるし、思ったことありますからね」

古典落語を現代に蘇らせるときには、どうしてもキャラクターに現代人の息吹を入れるしかない。しかし元のキャラクターの中には江戸っ子が持っていた独自の気質・気風があったはずで、改変によってその美点は崩されてしまう可能性がある。そこをいかに崩さずに演じるかということが立川談志の挑戦であり、それが思うようには浸透しなかったという苛立ちが晩年になって「江戸の風」という表現になったのだと私は理解している。ナンセンスに演じたり、現代のギャグをつかみこんで入れたりといった「部分」の演出以前が落語を壊すといって忌避されることがあるが、そういうこと以前に談志には、キャラクターの内面である「了見」の把握の仕方を間違えることが許せないという気持ちがあったわけである。これは「原作」がある古典落語を演じることの意味への問にもなっている。三遊亭円丈は「談志の限界は古典落語の演者に終止して、新作落語の作者にならなかったこと」と公言しているが、それはこうした苛立ちにも気づいていたからではないか。

原作つきの古典を演じる落語家はみなこの問を背負って自身の落語のありようを模索している。その中で一之輔は落語の中には「部室落語」というものがあり、ストーリーに頼らないスケッチでも一つの高座を構築できる、と気づいたことにより自作の演出の幅を大きく広げたように思う。上に挙げた「初天神」の金ちゃんの演出がよくある「あるある」的な「似た者探し」に留まらないのは、そうした中心線がはっきりできているからなのである。この中核の部分をさらに太く、大きくしていければ一之輔という落語家はさらに化ける余地がある。そんなことを感じさせられた「解題」であった。

最後にもう一つ。できれば一之輔に演じてもらいたい作品の一つに、丹下健太という建築家みたいな名前の小説家が書いた『マイルド生活スーパーライト』(河出書房新社)がある。これは女にふられた男の話で、その女が「あんたをものに喩えると川に浮かんだ葉っぱみたいなもので、下流で待っているあたしのところにそれが流れてくる気がまったくしない、だから別れるの」みたいな、わかったようなわからないような最終通告を突きつけるのである。それで主人公は「川を流れてくる葉っぱは本当に見えないものなのか」ということが気になり、周囲のもてない仲間に手伝わせて実験をするのである。馬鹿だねえ。努力しなくちゃいけないことは他にいくらでもある気がするのに。そういう「部室小説」なのでした。落語好きの諸兄諸姉、他のジャンルにもそういうおもしろいものはあるんです。落語をよく知らないみなさん、落語家にも一之輔みたいに他のジャンルで通用するおもしろいものを作品として演じている人はいるんです。お互いに交流したらいいと思うな。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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