小説の問題「幸せな読書のために」平松洋子と荻原魚雷とダニエル・ウッドレル

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 昨日に引き続き「問題小説」の旧稿をご紹介したい。2011年12月号、この号で最終回である。

 タイトルは今とっさにつけた仮のものだ。雑誌の切り抜きを探したのだが、この号だけ見当たらなかったからである。原稿を読み直し、そういうことを思いながら書いたのだろうと推測してつけてみた。たぶん、だいたい合ってる。

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「幸せな読書のために」

当欄がいつ始まったのか、筆者自身の記憶も曖昧なのである。確認してみたところ、一九九八年三月号であることが判った。意外と昔だ。十三年余の長きにわたってご愛顧をいただいたことを、ここに御礼申し上げます。

%e3%83%80%e3%82%a6%e3%83%b3%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89-2 今回は本をいかに読むべきかということについて二冊の読書エッセイを手がかりにして書いていきたいと思う。本についての本を読むと、読書の幅が広がるが、読みたい本が増えてしまって厄介だということもできる。平松洋子のエッセイ『野蛮な読書』の帯文句にこうある。

「本は本を連れてくる」

そのとおりである。本は淋しがり屋なので、勝手に仲間を増やそうとするのだ。いつかは運命の本に巡り会い、その本だけを伴侶として生きていけるようになる――なんて甘い夢想をしている読書人はほとんどいないはずだ(先月紹介した山村修『遅読のすすめ』では、そうした稀有な例が紹介されていたわけです)。

本が仲間を連れてきてくれるのは、その人が本に好かれたからだと思おう。

文章家の千野帽子に『文藝ガーリッシュ』(河出書房新社)というブックガイドがあるが、その副題が「素敵な本に選ばれたくて」だった。読者が本を選ぶのではなく、本に選ばれる。これは目から鱗が落ちるような発想の逆転だ。ある本がおもしろくないと感じるのは、その人が本に選ばれなかったからなのである。

書店の店頭を見ると息苦しくなることがある。これだけの本があり、その中には何万、何十万の人が読んでおもしろいと言った作品がごまんとあるのに、たぶん生きているうちにそれを全部読むことはできない。そう思うと、恐怖にも似た感情がこみ上げてくるのである。

だが、発想を逆転させてみると、そういう気持ちはきれいに消える。どんなベストセラー、ミリオンセラーであろうと、自分がその本に選ばれるとは限らない。万人が読むのに自分は読めないと思うから切なくなるのであって、最初からそんな基準は必要ないと考えるべきなのだ。読者は本を選べない。逆に本が読者を選ぶのだから、選んでもらえるような慎重な読者になりたいと願う。

初心に戻り、では自分はどういう読者になれるのか、考えてみよう。『野蛮な読書』という楽しいエッセイ本が、まずはそのための手引きになってくれるはずだ。

平松洋子は食事や生活についての文章でよく知られている著者である。生活の中に溶けこんだもの、自分の一部として成立してしまっている暮らしの要素について考える平松のエッセイは楽しい。食はたいていの人にとって切り離せなくなっている自分の一部だが、読書人にとっての本だってそうだ。平松は川上未映子『ヘヴン』(講談社)を読み終えたときのことをこう書く。

――本を閉じると、物語の最後に射しこんだ光明を祝福するかのように、きょうの朝がそこにあった。呼吸をひとつ、すると、清浄がからだのなかに流れこんできた。三時間ぶんの手のぬくもりが移ったほんがとても愛おしい。疲れはなかった。無類の物語を読みきった充実がふくらね、一日のはじまりに輝きが与えられていた。

羨ましいと感じたのは、『ヘヴン』という小説を読んでいたとき、平松は自分を無に近い状態にできていたのだな、と右の文章から推察できることだ。無であったからこそ、何かが体内に流れこんでくるような読書が可能となった。

読書の方法としていちばん不幸なのが、自分の中にすでにあるものと本をつき合わせ、それにそぐわないと排除してしまうやり方だ。そういう人は本にきっと「選ばれない」。何がなんでも自分の方に引きつけるのではなく、まずは本に入ってみる。そろそろと。生まれて初めて見た泉に足をつけるような気分で。

幸せな読書の鉄則、その一。まずは頭を垂れて、本に接してみる。本に「選ばれる」ためには、初めから自分を出さないことである。

特に小説を読むときに気をつけたいのが、そこにある「物語」に先入観を持たないことだ。小説にとって「物語」は必須の要素ではない。たいていの本には「あらすじ」が付されているが、それはあくまで本の中に読者を誘うための手引きにすぎないのだ(ありようとしては食堂の前のケース内に置いてある、見本に近い)。本の中で著者は脱線するかもしれないし、あまり重要とは思われない脇筋の話をするかもしれない。そうした余剰を含めてすべてが本の内容なのである。読者はそれらをすべて読み、一つのまとまりとして受け止める権利がある。だからこそ本を読むと、自分が何かを得たという感じを覚えるのである。最初から判っているあらすじを「確認」しただけでは、この膨らみを実感することはできないだろう。

開高健『戦場の博物誌』(講談社文芸文庫)の読書体験を語る平松は、「読むことの不思議、奇妙な感覚」について書く。「からだのなかに物語が構築されながら、いっぽう自分の記憶がじいじいと小さな音を立てて蠕動をはじめ、しだいに言葉と呼応し、反応を高めてふくらんで」いったという。その内なる現象こそが読書の楽しみなのだ。

小説だけではなく、ノンフィクションやエッセイなど、ありとあらゆる本に「物語」は存在する。読む人が、自分の内部にそれを作りだすからだ。あらすじをなぞるだけでは「物語」を得ることはできず、本に書かれたすべてに付き合うことによって初めて可能になる。これが幸せな読書の原則、その二である。

%e3%83%80%e3%82%a6%e3%83%b3%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89-3 ここで紹介したのは『野蛮な読書』のごく一部だが、それだけでも二つの発見があった。通読すればさらなる楽しみを見出せる本であり、ことに「論理ではなく官能で本を楽しむ」ことについては多くを教えてくれる。名残惜しいが荻原魚雷の『本と怠け者』に触れる余裕がなくなってしまうので先にすすむことにしよう。荻原もまた量を誇らないタイプの読書人である。極論するとこれは、読書が人としての修養を「積み上げる」ためだけにあるわけではないということをいろいろな形で表現した本だ(だからたぶん『本と怠け者』なのである)。

本に惑溺したからといって、その先に何かがあるわけではない。本が人を成長させるという見方は誤りで、退歩させることだってある。いや、そのほうが多いだろう。『本と怠け者』には、荻原が古書を読んで知った人物のことが多く書かれている。世間的に知られた人とは限らず、むしろ埋もれて忘れられてしまった人のほうが多いように思う。そのうちの一人がジョヴァンニ・パビーニだ。彼が何事をなした人物であるか「パピーニ、行き詰まる男」と題された章の内容を読んでも判然としない。しかし、次の一文によって、その存在だけは深く心に刻まれたのである。読書に明け暮れてきたパピーニが「自分は人々を知らなかった」ということに気づき、人と交わろうとしたときの言葉である。

「お前たちは自分を怒らせるし、又、よりつくことが出来ないほど嫌である」

あまりにも率直かつナイーブな物言いで、目の前でこの言葉を言われたとしたら噴飯ものだろう。だが、この心情はなぜか胸に迫るものがある。確かに現実世界のあれこれは自分を怒らせるし、「よりつくことが出来ないほど嫌」なのだ。こうした後ろ向きの姿勢になってしまう不自由さが、読書の負の効能である。本の中ばかり追っていても、社会との距離は縮まらない理屈なのだ。

『本と怠け者』というエッセイ本のおもしろいところは、こうした後ろ向きな読書家、文章家を紹介する章を重ねていくうちに、そのつらなりの中から文明批評の物言いが現れてくる点にある。コカイン中毒者であった安成貞雄について書いた「与太大王、浪吟す」の章で、荻原はこう書く。

――わたしは合法違法、あるいは道徳上の善悪理非には、微妙なグラデーションがあってほしいとおもっている。ひとたび「こいつは叩いてもいい」となれば、まったく容赦がない。そんな極端さが怖いのだ。

もちろん荻原は安成の悪癖を擁護しているわけではなく、その人生を俯瞰してみれば、ただ非難するだけの一面的な扱いで人を断じることは不当に感じるようになるはずだ、と言っているのである。繰り返し書いているように読書は個人的な体験だから、それを通じて養われてくる考え方の中には、他者と共有できないものがあって当然だ。そうした独自のものの考え方、他とはつながらない自分だけのひっかかりもまた読書の産物なのである。

そのひっかかりがあったために先に進むことができなくなった人もいるということを『本と怠け者』は紹介する。その孤独と、自分なりのものが何もない空疎さを天秤にかけたらどうなのかということを表した本なのだ。幸せな読書の原則その三。本を読むと孤独になる。その孤独とどう向き合うかを考えるところまでが本当の読書という行為なのである。

418xkbhhxrl-_sx339_bo1204203200_ ここに『ウィンターズ・ボーン』という小説がある。この原稿を書いている十一月上旬現在、同題の映画が上映されている。その原作小説だ。もし機会があれば、映画のほうも観てもらいたい。作者はダニエル・ウッドレル。一九八八年に『白昼の抗争』(ハヤカワ・ミステリ文庫)という長篇が一冊だけ訳されたが、あまり一般に浸透したとは言いがたい名前である。。十三年半続けさせてもらってきた連載の終わりに紹介するにはやや地味な小説かもしれないが、本稿をここまで読んでいただいた方には、ぜひこの小説を読んでいただきたい。「主人公に共感できる」ことや本に「よい気持ちにしてもらう」ことに慣れた読者には親しみにくい内容の本だからだ。しかし、孤独になることを怖れず、自分の先入観を捨てて本に接することができる読者にとっては、自分の中のとても深いところに共鳴するものを見つけられる作品である。

小説の舞台となるのはミズーリ州とアーカンソー州の間に広がる丘陵地、オザーク地方だ。痩せた土地であり、貧困が支配している地域でもある。ここに住む人々はヒルビリーと呼ばれ、文明社会の恩恵とは無縁の生活をしている。

そこで暮らす、十六歳の少女リー・ドリーが本書の主人公だ。彼女はある日、家族が崩壊の危機に瀕していることを知る。覚醒剤を密造して逮捕された父親が、多額の保釈金を踏み倒して失踪した。父親が裁判所に出頭しなければ、保釈金の抵当になった家が押収されてしまうのである。そうなったら一家は離散するしかない。家族を救うため、父親もその一員であったオザークの裏社会にリーは乗り込んでいく。だが、彼女の前には苦難が待ち受けていたのである。

心臓を直接掴むような力強さに溢れた小説である。ただし、荒削りで洗練とは程遠い。中途には凄惨な描写も出てくるので、思わず目を背けたくなる読者も出ることだろう。だが、それを超えて初めて読書の幸福は約束されるのです。

よい読書を。お元気で。

(初出:「問題小説」2011年12月号)

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