幽の書評vol.7 森見登美彦『きつねのはなし』

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きつねのはなし (新潮文庫)

人智を超えたものが蠢く、蜃気楼の街・京都。第二十回山本周五郎作家が世に問う、初の怪談小説集

森見登美彦は蜃気楼のような小説を書く作家である。蜃気楼は大蛤の見る夢だというが、森見の場合は、四畳半に独居する男の夢想が像を結んだものだと思われる。連作集『四畳半神話大系』(太田出版→角川文庫)収録の「八十日間四畳半一周」は、永遠に続く四畳半の中に男が閉じ込められるという奇想譚だった。同作のみならず、四畳半こそがすべてで世界はそこで完結しているというような、閉じた空想譚を森見は書き続けてきた。たとえば森見は小説の舞台を京都に採るが、彼の描く京都は現実の似姿ではない。それこそ蛤が見た夢のような、不思議な都市なのである。

『きつねのはなし』は、森見初の怪談小説集で、表題作を含む四篇が収められている。雰囲気はだいぶ異なるが、この作品集は一連の四畳半小説と地続きのものである。収録作の一つ、「果実の中の龍」では、登場人物がこんなことを言う。この街に暮らす大勢の赤の他人たちの間には神秘的な糸が張り巡らされており、その糸を辿っていくと、街の中枢である秘奥に通じているのではないだろうか、と。そうした妄想が蜃気楼のように形を結び、短篇となったのだろう。

それぞれの物語の背景には、個々の物語の枠を超えた神秘の存在がほのめかされている。少しずつ顔つきを変えながら、各話に顔を覗かせているのだ。表題作は古典的な怪奇小説の筋立てで、古道具屋でアルバイトをする青年が、天城という人物に物品の交換を持ちかけられるという物語である。交換の意図が不明であるところが薄気味悪く、悪魔によって次第に魂を掠め取られていくような心地を覚える。本篇に登場する芳蓮堂という古道具屋は、全篇に共通して登場し、人々を魔の境界へと案内する装置の一つである。

人智を超えた神秘がさまざまな形で表現された連作だが、私には特に「魔」と「水神」が興味深かった。この二篇は、怪の存在を視線によって表現した小説なのだ。

「魔」では、主人公が入り組んだ狭い路地に魅せられ、その探訪にこだわる。路地の中で誰もが覚える、視界の狭隘感が主題になっているのである。視界の死角から突然出現する魔に驚かされる。

続く「水神」は、祖父の通夜に主人公が参列し昔話をしているうちに怪が現われるという話である。冒頭に、主人公が弔問客の姿を影絵芝居のようだと感じる場面がある。そのことをきっかけに世界から急速に現実感が消え失せ、舞台上の芝居のようになっていくのだ。

その舞台を見つめるものがいる。話の中盤、主人公が「なぜ誰かに見られている気がするのか」と不審を抱くとき、読者も物陰に潜む者の視線に気づかされるのである。その正体が何であるかは、あえて書くまでもない。

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