小説の問題 「グーグーだってペコペコである」津村記久子と森見登美彦と小林信彦

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「問題小説」連載の原稿を発掘する「小説の問題」、今回は2008年10月号だ。

 雑誌の切り抜きをぱらぱらめくってこのタイトルを発見したときは、思わず笑ってしまった。なんだこれ。元ネタは有名な漫画のあれだろう。フィクションを三冊紹介するときに、統一テーマとかではなく部分に注目してみようと思いついた回、のはずである。

 この三冊をとりあげた、という時点でもう方向性は決まってくる。タイトルと選書で9割方仕事が終わった書評だと思う。

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グーグーだってペコペコである

評論家の日下三蔵氏が「小説現代」で連載している書評が、『ミステリ交差点』(本の雑誌社)として一冊にまとまった(注:当時)。一回に二冊のミステリーを紹介し、作家の背景などを比較しながら内容を解説するというレビュー本である。索引が二十一ページもある有用極まりない本で、私はたいへんに触発を受けた。

だからというわけではないが、日下氏に対抗するためにも今回は深遠なテーマを扱おうと思う。「お腹ペコペコ」である。

人間は、お腹が空いた状態では高踏的な思考をする余裕をもてないものである。腹がぐるぐる鳴っているのに首から上だけ小難しいことを考えているふりをしても無駄だからで、「お腹ペコペコ」は人間を滑稽の地平に引きずり下ろすのである。お腹ペコペコの人間を扱えば、いかなる気取りとも無縁な姿が描けるだろう。

%e8%91%ac%e7%a4%bc%e3%80%81%e5%a9%9a%e7%a4%bc%e3%80%81%e3%81%9d%e3%81%ae%e4%bb%96まず採り上げるのが、津村記久子『婚礼、葬礼、その他』だ。津村は一九七八年生まれ、第二十一回太宰治賞を受賞した『君は永遠にそいつらより若い』(筑摩書房)で二〇〇五年にデビューを果たした。二冊目の著書になる『カソウスキの行方』(講談社)は、第百三十八回芥川賞の候補作になっている(受賞作は川上未映子『乳と卵』)。この両作は、主人公像が印象的だった。ひとびととの軋轢に耐えられないのでコタツ布団の中から首だけ出して外の様子を窺っているような、腰が引けた人物なのだ。

小人閑居してなんとやらの謂いのとおり、彼らは内面に奇妙な鬱屈を抱えていて、それをぼそぼそと告白する。『カソウスキの行方』では、左遷の結果倉庫勤務に追いやられた主人公が「仕方がないので」同僚の一人に恋をしていると思いこもうとする、というのが最高に可笑しい。世間と自分の間に緩衝材を置くのは勝手だが、なにも「恋愛」をそれに当てなくたっていいではないか。

実はこうした人物像を描くとき、食べ物という小道具、空腹という状況が非常に有効であるようなのだ。『君は永遠にそいつらより若い』では、処女だが「処女という言葉にはもはや罵倒としての機能しかないような気もするので」「童貞の女ということにしておいてほしい」と称する主人公(なんというやる気のなさ)が、自室で飲んでいるのが「ソイごまラテ」というのがいかにも、という感じであった(ごまペーストと豆乳をホイップして作るのだ)。川島なお美ではないが、「私の血はワインが流れているの」ぐらいの気張った台詞でもないと、恋愛モードに突入するのは難しいのではないか。

今回の『婚礼、葬礼、その他』は、会社員ヨシノの混乱した休日を描いた話だ。彼女は「誰かを呼びつけた記憶はない」が、なぜか「頻繁に呼ばれる人生ではある」という損な役回りの人生を送っている最中だ。誰かの結婚式があると、必ず幹事役を押し付けられてしまうのである。付き合いがいいように見えるが、断るのが面倒なだけだ。やる気がないために人に合わせて動いていたところ、主人公は大変な目に遭わされてしまうのである。

ヨシノが友人の披露宴に出席しようとして会場に向っているときに携帯電話が鳴る。それは上司からの電話だった。彼女の勤める会社の、マジマ部長の父親が前夜急逝したというのだ。その日に行われる通夜に来いと言い渡し、上司は電話を切ってしまう。

会場の人々にわけを話して、葬儀会場へと到着したヨシノの頭上には、次第に暗雲が垂れこめていく。宴会前だった彼女は、当然ながら何も食べていなかった。初対面の遺族たちの間をうろうろしているうちに、空腹感は耐え難いものになっていく。それにつれてヨシノの胸中には、自らをこのような立場へと追いこんだもの(主にマジマ部長の父親)への憤懣が満ちていくのであった。悪意充満状態になってからの人間観察ぶりは、実に意地悪でいい感じである。

スラップスティック・コメディは、現実と虚構を闇雲に混ぜ合わせた中から奇跡のような場面を生み出す。本書の神々しい瞬間は、披露宴で発生した非常事態を、ヨシノが葬儀会場のトイレから解決しようとした瞬間に訪れるのである。何が起きるのかは読んでのお楽しみです。

併録作の「冷たい十字路」は、路上で起きた事件を、複数の人物の視点から綴っていく話で、無関心から生れる悪意の形を作者は描き出している。腹ペコ成分は少なめなので表題作に比べるととっつきにくい印象だが、ぶっきらぼうな語り口に味がある。

%e7%be%8e%e5%a5%b3%e3%81%a8%e7%ab%b9%e6%9e%97 津村記久子よりデビューは二年早いが、森見登見彦もまだまだキャリアの浅い作家だ。だが第二十回山本周五郎賞を受賞した『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店)などの話題作を発表し、こちらも若手の一人という枠に押しこめられないほどの活躍ぶりである。今回紹介する新刊『美女と竹林』は、帯の文句によれば森見の「随筆集」だという。え、随筆集?

森見は、小説内のすべての事象を丹念に地上から切り離し、空中楼閣の上に浮かべてみせる作家だ。デビュー作『太陽の塔』(新潮文庫)や、それに続く『四畳半神話大系』(角川文庫)は、京都大学らしき大学に通う学生の下宿生活が克明に描かれていたことで当初話題になった。しかし森見が作り出した物語の舞台は、四畳半という狭い下宿であると同時に妄想が生み出した広壮な異世界でもあるという極めて特殊な空間だった(『四畳半神話大系』所収の「八十日間四畳半一周」がいい例)。現実と虚構とが、そこでは無造作に重ね合わされていたのである。

そうした作家が書いた「随筆集」だから、随筆・エッセイと聞いて想像するようなものとは一味も二味も異なる。内容はもちろんいつもの森見作品だ。舞台は例によってほぼ京都の中だけだし。

妄想作家(と自称する)森見登見彦氏が、多角化経営に乗り出そうと決意する場面から話は始まる。文筆業というのは不安定な職業であるから、経営の多角化を図って保険を掛けるというのはそれほど無茶な話ではないだろう。熟考の結果出たのが、竹林経営という解答であった。

たいへん突飛な思いつきのように聞こえますよね。だが、幼少のころから祖父家裏の竹林に親しんでいたという過去や、大学院の研究室に在籍していたころ研究対象が竹であったという学歴、職場の先輩の実家が竹林を所有していたという事情など、もろもろの状況が重なって登美彦氏は実際に竹林経営に乗り出すことになってしまうのである。

こう書くと読者は、ドキュメンタリータッチの物語を想像されるはずである。実際、話の進展にしたがって(本書の元版は『小説宝石』に連載された)現実の出来事に作品内のエピソードは接触するようになっていく。登美彦氏は女優の本上まなみと対談したり(『美女と竹林』の「美女」部分だ)、山本周五郎賞を受賞したりするのだ。こういう物語の進め方って、かつて椎名誠が『哀愁の町に霧が降るのだ』で同じ趣向をやったときに「スーパーエッセイ」と呼ばれた手法と同じものでしょう(ただし『哀愁の町に霧が降るのだ』は単行本書下ろし)。現在進行形で話を展開して読者に関心をもたせ、作品の中に引きこむわけだ。

『美女と竹林』はれっきとした「創作」である。物語は現実寄りに滞留しているが、読者が隙を見せるとすぐに虚構の側に漂っていってしまう。仕方ないのである。作中人物の登美彦氏は自称「妄想作家」なのだから。この傾向はだんだんエスカレートしていき、終盤付近では物語が開き直ったように境界線を越え、読者の手が届かない地点まで浮遊していく。この置いてけぼり感覚が楽しいのです。

ちなみに作中の登美彦氏は、竹林整備の果てに自己の肉体を改造し、ムキムキの筋肉体質になることを夢見ている(竹を切り倒す作業は、かなりの重労働らしい)。そのためか彼は、竹林入りのたびにステーキハウスで昼食をとるのである。作業中のステーキ食には「竹林を離れてもナイフで肉をギコギコすることによって身体がなまることを防止し、なおかつタンパク質を大量に摂取することによって筋肉を作り、午後からの作業にそなえる」という効用があるのだそうだ。

注意して読んでいると、登美彦氏は阪急そばやら、竹林の持ち主である鍵屋家の刀自に出していただいたケーキやら、錦市場近くの『ブルース&焼き肉 へんこつ』の焼き肉やら、結構な量の食物を摂取しているのである。このへんがもう一つの楽しみどころだ。竹林伐採は、単にお腹を空かせて美味しくご飯を食べるための口実に過ぎないのではないか、と誰でも思いたくなるはずである。冷えたビールが飲みたくなります。

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犯罪小説の中にコンゲーム小説というジャンルがある。コンはconfidentialの略で、信用詐欺を主として扱った作品のことを言う。暴力を徹底的に排除し、主人公がおのれの知力だけを頼りに闘うのが基本形式だから、作風は洒脱をもって良しとするのだ。英国作家ジェフリー・アーチャーの『百万ドルをとり返せ!』(新潮文庫)がジャンルを代表する作品として有名で、彼は自らが信用詐欺に遭った体験を元にしてこの作品を書いたそうだ。つまり、悲劇を喜劇に転じるようなユーモアのセンスが必要なジャンルなのですね。本質的に喜劇小説である。

小林が最初に手がけたコンゲーム小説『紳士同盟』(扶桑社文庫)は、かつて文藝春秋が行ったランキング企画『東西ベストミステリー』(文春文庫)で、日本篇四十五位に入るという高評価を得たことがある名作だ(『百万ドルをとり返せ!』は海外篇五十二位でした)。本書はその続篇に当たる。前作で活躍した素人詐欺師たちが本書で四年ぶりにチームを組み、三つのヤマを踏むのだ。

主人公の寺尾文彦はTV番組制作会社の経営者である。五十の坂に差しかかった年齢で、おそらく作者と同じ一九三二年の生まれだ。ここが重要な点で、彼は太平洋戦争の体験者なのですね。首都が焦土になるという経験をしているだけに、現在の繁栄というものを信じられずにいる。時代は一九八〇年代前半、バブル経済の勃興期なのだけど、彼にはそれが幻のように見えているはずである。前作の冒頭で寺尾は「生れてから飢えたことのない若い連中は、どうも好きになれない」との述懐も漏らしていた。

つまり、お腹を空かせたことのない連中の間に、真の腹ペコの体験者が紛れ込んでいるわけである。飽食のカモ対飢えた主人公という構図があるから、読者は主人公の側に感情移入しやすいのだろう。

続篇にあたる本書では主人公が腹ペコ体験を主張する回数は少なくなっているが、それでも飢餓体験によって植えつけられた影が、彼の第一の魅力であることに変わりはない。いわば歴史の残滓を引きずった腹ペコなのですね。

飢餓というものが存在しない今の日本では、こういう主人公を描くことは難しい。腹ペコにも時代の推移があるということを小林作品は教えてくれているのだ。

(初出:「問題小説」2008年10月号)

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