芸人本書く列伝classic vol.35 コロッケ『マネる技術』

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マネる技術 (講談社+α新書)

ものまね、という芸が私にはよくわかっていない。

寄席芸で言うところの「形態模写」あるいは「声帯模写」ならばなじみが深いのである。あれは話芸の中にその折々の時事に関する有名人や、人気者(歌舞伎役者や映画スターなど)を織り込んで「ご機嫌を伺う」という芸である。四季を感じさせる鳥の鳴き真似を得意とする江戸屋猫八という名人もいましたね。

話芸なくしては成立しないし、模写の部分を抜いたらただの漫談と化す、という点では三味線やギターを抱えての音楽漫談とほぼ同じ位置にある。自分は直接聴いたことがないが、故・柳家三亀松というのがつまり、形態模写と三味線漫談を兼ね備えた最高の寄席芸人なのだと思う。ずいぶん粋な芸人だったようで、吉川潮の評伝小説『浮かれ三亀松』(ランダムハウス講談社文庫)を読むと、男勝りの気性で知られる深川芸者に若い頃惚れられるなど、いい男に書いてある。

政治家の形態模写で当代一だと思うのは松元ヒロで、この人が今やっている安倍晋三は絶品である。本人がネタにしていたが「昨日もテレビ局の関係者が三人も来ていたんですよ。(出番が)終わったら全員が爆笑しながら楽屋に入ってきて、ぶわっはっは、いやー、ヒロさん、おもしろかった!(破顔したまま)放送できない!」と言われたというのは実話だろう。そういう芸の人なのである。「放送できない」というのはそこに強い諷刺性があるからで、万人が見るテレビという場にはなじまないのである。この「諷刺のあるなし」が、その芸が現代的であるか否かの分岐点になると思うのだが、残念ながらきつい洒落をテレビは受け付けない。題材にしていいのは芸能人か、あるいはニュースなどで一躍時の人になった一般人か、ということになる。テレビで放映されている「ものまね」はすべてその次元のものだ。

で、コロッケである。

コロッケのものまねはデフォルメの芸である。デビューのころからテレビで定期的に観ていたが、あごを極端に強調した表情のまま唄う岩崎宏美の物真似など、かなり初期の段階から「似せようとしていない」芸をコロッケは披露していた。さらにそこにギミックを取り入れ、ロボットのようなかくかくとした動きをする五木ひろしが、「五木ひろしロボット」にまで特殊進化を遂げていったことはご存じのとおりである。それがどの程度人口に膾炙しているかといえば、2014年公開の映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」になんの説明もなく「巨大五木ひろしロボ」が出てきたことでも判る。劇場では「あの動き」がギャグとして子供たちには理解され、爆笑を誘っていた。美川憲一などの持ちネタもそうだが、一人の芸がここまで広く共有されるようになった(しかも複数)のは他に例のないことだろう。

新刊『マネる技術』(講談社+α新書)は、コロッケが初めて自身の芸について書いた本である。後で触れる彼の芸論の中枢をなす人間観察に関しては1994年に『コロッケのおもしろ人間ウォッチング ほくほく!』(近代映画社)という本を出しているが、芸論としてまとまったものはこれが最初だろう。

「はじめに」で、自身のものまねの特殊性についてこう書いている。

形態模写が完璧で本人と瓜ふたつ、というわけではありません。歌が本人そっくりにうまくて、歌声で人を感動させ、涙を誘うということもありません。はっきり言ってしまえば、たぶん本当に似ているのは一〇のうちの二~三割程度。

しかも私の場合、長年その方のものまねを続けるなかで、妄想が膨らみ、アレンジが進み過ぎて、よく見れば、ご本人とは似ても似つかぬ状態になってしまっている。だって、五木ひろしさんはロボットではないし、瀬川瑛子さんは間違っても牛ではありませんし、森進一さんは絶対に恐竜ではない……。「本当にその人のものまねなの?」と突っ込まれたら、困ってしまう持ちネタもたくさんあります。(後略)

二、三割しか似ていない、という自己分析はすごいし、「歌声で人を感動させ、涙を誘うということもない」と「似てればそれでよし」とするタイプのものまねにチクリと釘を刺しているところがまたいい。四章から成るこの本は、それぞれ章題に「第一印象はいらない」「好奇心が現実を変える」「表現力を身に付ける」「研究心を継続させるコツ」とあり、コロッケ流の物の見方と表現の仕方を解説した本として読める。芸人本にありがちな武勇伝、若いころの貧乏話はまったく無く、むしろ一般的な処世術として解釈できる部分の方が多い。著者のまっとうな感覚を証明するような一冊なのだが、それなのに出来上がってくる芸があの通りのものである、というのが可笑しいポイントなのである。まっとうな神経の持ち主なのにものまねをするとロボットや恐竜になる、という飛躍には、もちろん諷刺眼が介在している。もちろん松元ヒロのように尖鋭的ではないが、対象を自分なりに解釈した結果が極端なデフォルメになる、という点に意義がある。

本書の第一章は人間観察に関してのものだ。はっきりと冒頭で「まねる」ことは「観る」ことである、と言い切っている。しかも「人のイメージは、第一印象で九割が決まる」という通説に異議を唱え「第一印象にで安易に相手を判断してしまうと、その人の「本質」を見極められなくなる気がしてならない」と言う。この章の肝はほぼこの文章に尽くされており、ではどのようにして本質に迫るか、ということが次に詳らかに書かれている。

コロッケが初対面の際に必ずすることに「妄想」があるという。初対面の相手に接するとき、ほとんどの人は良い印象を与えようとして振る舞う。しかしコロッケの脳裏には、対峙するうちにその人が意図的に作ったものではない、普段の立ち居振る舞いが映像イメージとして浮かんでくるのである。

目の前にいる初対面の相手が、やたらと声が大きかったり、ちょっとオーバーアクションだったりすると、飲食店のテーブルの真ん中に陣取って、賑やかに話題を振りながら盛り上げ役に回る姿がイメージとして浮かんできます。丁寧にメモを取っている人なら、端に座ってコールボタンを押して、みんなの飲み物を注文している姿が湧き上がります。ノック式のボールペンを縦に横にと置き換えながら話を聞いている人だとすれば、食事中に仲間と会話をしながらもスマートフォンでメールばかり気にしている姿が、一瞬にして見えてくるのです。

さらに二回、三回と会ううちにこうした妄想は輪郭を鮮明にしていき、ある時点で「具体的なその人」の像になる。ここでも重要なのは表情そのものではなく「仕草」なのだという。言い換えるならば、静止画ではなく動画ということか。あくまで生きて動いている対象として相手を捉えるということが、コロッケの芸の根幹になっているのである。

さらに重要なのは、そうした像ができてからも決して相手を決め付けないことだという。固定観念をもたずに対象を見ることで新しい発見があり、それをイメージに還元して膨らませていくことでさらにものまねは強化されていく。そうした形で相手を見つめるという行為自体、もはや対象への愛情表現であると言っていい。

一般人にとってはこの第一章は、ものまねの指南書というよりは「どうすれば人と親しく接することができるか」というコミュニケーションの教本として読めるのである。「考えることをやめて歩く」「あの人になってみたい、が基本」「カメラのシャッターを切るように人の動作を目に焼き付けていく」など印象的なフレーズが頻出するので、実用書的な関心で本書を読んでも十分に満足できるだろう。営業部などでまとめて購入して、新人社員に読ませてもいいかもしれない。

前述したように全体的には芸人らしい自己主張は少なく、「コロッケは臆病で小心です」「気を遣わせない技術」「「人間関係」を継続すること」「相手が一番、自分は二番」というように調整型の性格ということばかりが前面に押し出されている。その中に「クロムハーツが大好き」といった趣味の部分が小さく挿入されてもいるのだが、自己主張をしたいという自我はやはり稀薄なのだろうと感じさせられる。

そういう人物がなぜ芸人として長く生きてこられたのか、という疑問への答えが書かれているのが第三章で、これは芸の表現についての章である。おもしろかったのは「まねのまねもまた、まねなり」という項だ。

だいぶ前のことですが、テレビを観ていたらとある芸人が出ていて、周りから「それ、野口五郎のまねっていうより、野口五郎をやっているコロッケのまねだろう!」と突っ込まれていました。(中略)私としては、後輩のものまね芸人が「いい」と思うなら、私のまねをしてくれていいと思っています。(後略)

こういう感覚は、テレビで持ちネタを競う立場の人としては珍しいのではないか。なぜ自分のまねをしてもかまわないかというと「まねのまね」をしていけばいつかその芸人独自の「オリジナル」になるときが来るからだという。この例を語るときにコロッケは歌舞伎や能、落語といった「古典芸能」を引き合いに出している。「「誰が演じるか」で、まったく違った作品に見えるのが古典芸能の面白さ」「「型」のある様式美の世界においても、個々人の「オリジナリティ」はいかようにも発揮できる」といった分析、「ものまね芸にも歴史があります。現代のものまね芸の分野においては、私もその歴史を担ってきたひとりであると自負しています」という主張には、他の個所には見えなかったコロッケの芸人としての自我が現われている。

瞬間的な人気を狙うのではなく、芸人として長く行き続けること、そしてその芸によって自分の系譜を作るということ、それに特化してやってきたのが四半世紀に及ぶコロッケの歴史なのだ。そこに気づかせてくれたのが、本書の最大の収穫であった。

本書の印象だけを元にして言えば、芸能人・タレントと呼ぶよりも「芸人」の称号のほうがコロッケという人にはよく似合う。小心者・良識人であることを主張している本であるが、そこに書かれている心構えは非常に芸人的であると私は感じた。機会があったら、テレビカメラの前ではない場所にいるコロッケも観てみたいものである。板の上に立ったとき、従来の形態模写漫談と自分との違いをこの人はどのように見せ付けるのだろうか。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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