芸人本書く派列伝returns vol.1 石井徹也編『十代目金原亭馬生 噺と酒と江戸の粋』

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というわけで今回からタイトルが少しだけ変わった。現在も「水道橋博士のメルマ旬報」で続いている「芸人本書く派列伝」連載についてバックナンバーをご紹介していく。最初の何回かは続きものになっているので連日の更新でご披露するが、後は週一回程度の連載になる予定である。気長におつきあいください。

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十代目金原亭馬生 噺と酒と江戸の粋

「水道橋博士のメルマ旬報」のリニューアルにあわせて、この連載もタイトルが変わることになった。「マツコイデラックス」という元のタイトルは、編集長である水道橋博士の提案で、それではあまりに実在のタレント名に似すぎではないか、と気にかかった私の希望で副題をつけさせてもらうことになった。「われわれはなぜ本屋にいるのか」は言うまでもなく小林信彦のコラム集『われわれはなぜ映画館にいるのか』のもじりだから、よく考えてみるとあまり連載の内容とは関係ない。そのうちに、なぜ本屋にいるのか、の話もするだろうとたかを括って始めたら、ついにせずに終わってしまった。

というわけで新しいタイトルを「芸人本書く派列伝」とする。

もともとこの連載は、某所で私が書いていた「笑える本」の書評を目に留めた博士が、「芸人本限定で」ということで声をかけてくれて実現したものである。だから「本書く派」の芸人と、その本についての連載ということになり、誠に平仄が合っている。少なくとも「われわれはなぜ本屋にいるのか」よりは実態を表していると言っていいだろう。そんなわけで、よろしくお願いします。

これまでの連載では、極力自分というものを出さず、本そのものに興味を絞って原稿を書いてきた。それは「芸人の本」についての連載であって「芸人の芸」について書いているわけではない、という理屈があったからだ。「芸」を語るためにはそれなりの資格が必要になる。それこそ1年365日、来る日も来る日も寄席やライブに通っている人間だけに許されることで、有資格者と呼べる人はプロの書き手の中にもごくわずかしかいないだろう。それゆえ、これからの連載の中でも、演芸評ととられかねない表現は極力避けていくつもりである。ただ、50回余にもわたって芸人本についての連載をしてきたことで、読者に自分の姿勢を表明する必要も感じ始めている。この書き手はいったいどういう見地で芸人及び芸というものをとらえているのだろうか、ということを一旦お断りしておいたほうがいいだろうと思うのである。ゆえに今回は、始めにやや自分語りに近いことをする。

私は1968年に東京都で生まれた。ツービートやB&Bをスターダムに押し上げたMANZAIブームの到来は1980年のことであり、それ以前に見聞きすることが出来たのは軽演劇出身者や寄席芸人しかいなかった。芸人といえば東京芸人のことであり、上方落語家では笑福亭仁鶴や鶴光の名は知っていたが、実際に高座に触れる機会はなかった。唯一の例外は時折テレビで観る桂米朝で、子供心にその凄味を感じていた記憶がある。おそらく最初に聴いた上方落語は米朝の「七度狐」のはずだ。先年亡くなった八代目橘家圓蔵はまだ月の家円鏡の名で活躍しており、「笑点」の司会は三波伸介だった。桂歌丸と三遊亭小圓遊の不和が大喜利の売り物だったころで、小圓遊がそうしたテレビタレント的扱いに不満を持っていて、それがために過度の飲酒をして寿命を縮めた、ということを後で知って驚いたものである。そういう大人の裏など知るよしもないころに、私は落語というものを聴き始めたのだった。

「間に合った」「間に合わなかった」ということでいえば、八代目林家正蔵(もう彦六の隠居名だったが)の高座にはテレビながらぎりぎり間に合っているが、一九七九年に亡くなった六代目三遊亭圓生の高座を生前に観た記憶はない。おぼろげにテレビ観賞した記憶はあるのだが、落語協会脱退騒動が起きたのが1978年だから、没後のものを録画で観た可能性のほうが高いだろう。しかし物心ついたころから「三遊亭圓生は落語界の偉い人」ということだけはどこかで意識していたふしはある。角川文庫で刊行されていた落語協会編の速記集『古典落語』を読んでいたからだろう。当時人気の絶頂期だったザ・ドリフターズに「春だ!ドリフだ全員集合」という映画があり、いかりや長介演じる若手落語家の師匠として圓生が出演しており、もしかするとそれが動いている圓生を観た最初かもしれない。

はっきりと「間に合わなかった」ことがわかっているのは、十代目金原亭馬生である。

このメルマガの読者には改めて説明する必要はないかもしれない。あの五代目古今亭志ん生の長男であり、三代目古今亭志ん朝の兄である。娘は女優の池波志乃、中尾彬は義理の息子にあたる。本名美濃部清の馬生は1928年生まれ、15歳のときに落語家になったが、戦局が激しく若手がいなかったため、前座を経ずしていきなり二つ目「むかし家今松」として初高座を踏んだ。父志ん生が慰問のため満州に行ったきりになってしまい、後ろ盾を失った馬生は仲間内から辛いいじめにもあったとされている。

私が初めて馬生を聴いたのは高校進学後の15歳のときで、先輩から借りて初めて聴いたテープが「笠碁」だったことを覚えている。それまで子供なりにビッグネームの落語を聞きかじり、いっぱしの落語通のつもりでいたのだが、その「笠碁」で鼻をへし折られた。静かで綺麗で、厭味なところのまったくない世界が高座に広がっているだろうことが音を聴いただけでも窺えたのである。たちまち夢中になり、もっとこの人を聴きたい、いや、この人の高座を実際に観てみたい、そう願って聞いた私に、先輩は残酷な言葉を吐いた。

「死んだよ、馬生は」

高校に入学した1983年の前年、1982年9月13日に馬生は没していたのである。死因は食道癌。享年54の早すぎる死である。訃報が伝えられたその日、池袋演芸場の主任を務めていた立川談志は観客にそのことを告げ、漫談のみで高座を降りた。落語をやれ、との客の声に「今、落語をやりたくないんです」と応えたという。数日後、馬生の葬儀が行われた日にもやはり同じように落語をやらずに談志は高座を降りた。この両日の池袋演芸場に、まだ入門する前の2人の落語家が足を運んでいた。死の当日に柳家喬太郎、そして葬儀の日に立川志らくである。

映像や録音でしか知らない私でも、馬生という人が巨大な奥行きを備えた芸人であったことはよくわかる。とにかく、持ちネタの数が半端ではないのだ。そして、芸が軽い。ここぞというところで力瘤を作ってみせるような厭味さが少しもなく、いつもふわふわとしている。滑稽噺も大ネタとされる噺も同じで、聴き終えたあとにもたれることがまったくない。高校時代の私はやたらと八代目三笑亭可楽にはまり、そのそっけない話しぶりを真似したりしていたのだが、馬生の軽さというのは可楽とはまったく違う。同じはしょるのでも、可楽のそれはくしゃくしゃと丸めて投げ出すような乱暴さがあるのだが、馬生の噺はぽち袋にでも入れられたように収まりがよくて見苦しいところがない。同じ演者の噺をたくさん聴いていると中には明らかな失敗作もある。しかし馬生の場合はしくじりをそうと悟らせないところがあり、音源を聞き返してみてようやくそれに気づくことが多かった。実際に見聞しないと真価は絶対にわからないのだろう。改めて間に合わなかったことを残念に思う。

石井徹也編『十代目金原亭馬生 噺と酒と江戸の粋』(小学館)は、そんな遅刻組の人間にとっては非常にありがたい本だった。2010年の刊行なのでやや古いのだが、今からでもぜひ読んでもらいたい良本である。

編者の石井徹也は放送作家であり、馬生の訃報が流れた当時は早稲田大学落語研究会に在籍していた。談志が「今、落語をやりたくないんです」と言って高座を降りた池袋演芸場にも居合わせたという。その立川談志に当夜のことを振り返らせ、観客の立場だった柳家喬太郎にも別の立場から語らせる。そんなインタビューや、五街道雲助・金原亭馬生(十一代目)・吉原朝馬らの弟子たちが師匠・馬生を追憶する鼎談、実娘である池波志乃・中尾彬夫婦による人間・美濃部清の実像対談など、1つ1つの記事が充実しており、多方面から光を照射することによって馬生の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。さまざまな俗説・風聞のたぐいが否定され、改めて明らかにされる事実もある。

たとえば池波・中尾対談ではこんなくだりがある。晩年の馬生は高座に上がる前にビールを飲むのが常であった。人前で食事をする姿を見せることがほとんどなく、酒で栄養を摂っているようにさえ見えた。そうした姿を指して、馬生は酒で自殺をしたようなものだ、と言う者もあるが、その心得違いが指摘されている。

池波 (前略)あと「食べなかったから体力が衰えた」みたいに言われるのもお父さんが可哀想というか……結果が食道癌ですから、飲み込めなかったんです。(中略)でも、四十歳を過ぎてからは、外食だと一人前が食べられなかったんです。手をつけちゃうと「いっぱい残さなきゃならないこと」と、「みっともないこと」が嫌だった。ウチなら体調が悪くて、一口齧って「ダメだ」って残せるから、ゆったり食べてたんです。

馬生の生の高座を知る人はその絵心の確からしさ、目に見えないものを現出させる能力を口々に評価するが、それについても池波は語っている。子供のころ、動物園に行くと馬生は子供の好きなキリンやパンダはそっちのけで鷹や虎の檻の前に張り付いてスケッチをしていたという。

池波 鷹とか可愛くないし、子供には面白くないじゃないですか。鹿とか馬とか羊とか、後々、落語の一場面として活かせる動物ばかりを描くから、子供にとって面白くも珍しくもない。(中略)そのデッサンも、角だけとか、特徴のある体の部分とかを描いているから、全く面白くないんです。

先代の新宿末廣亭席亭で馬生の大ファンを自認する北村幾夫も登場し、その芸について多方面から分析している。馬生の空間を描き出す力、余白を利用する技術についてのこんな言葉が印象的だ。

馬生師匠はいないはずの人を、いるように演出するもんだから、噺自体がいきなりバンと立ち上がっちゃう。何でもないことなんだけど、これが凄い。

『厩火事』で兄貴のウチからお崎さんが帰る時、「姐さん、すいません」って言うだけで、向こうで針仕事しながら「困ったもんねェ」と思ってる兄貴のおかみさんの姿も見える。

器用で、見えないものを見えるように仕向けて客に魔法を掛けるだけではなく、その下に実はしっかりとした理論があったことも北村は言及している。

『そば清』の蕎麦の量の講釈もそうですね。「江戸時代の蕎麦はもりでもかけでも今の量の半分くらいしかない。屋台の夜泣き蕎麦にしても、古い川柳にあるように、夜鷹が二人仕事した四十八文で、十六文の蕎麦を三つくらい食べちゃうんだから、そんなに入ってるもんじゃない。だから、”蕎麦賭け”でたくさん食べられる」ってことを、それとなく観客に分からせて演ってましたよね。

芸というその場限りのものを語るとき、こうした証言は非常に大事だ。無形のもの、語り継ぐのが難しいものについて少しでも知りたい、知識として残しておきたい、という気持ちで芸人本を読んでいる、という面が私にはある。そのことを改めて意識させられた一冊だった。

次回、本書の話題をもう少しだけ続けたい。

本稿は「水道橋博士のメルマ旬報」連載を許可を得て転載しているものです。「メルマ旬報」は月3回刊。杉江松恋の連載「芸人本書く派列伝」はそのうちの10日発行の「め組」にてお読みいただけます。詳しくは公式サイトをご覧ください。

「芸人本書く列伝」のバックナンバーはこちら。

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