芸人本書く派列伝returns vol.20 『実録・国際プロレス』

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

実録・国際プロレス (G SPIRITS BOOK)

「芸人本に書いてあることはみんな嘘」という表現は、たしか立川談之助『立川流騒動記』(メディア・パル)で見たのではないか。当たっていると思う。

その世界の人間でもないのに、芸人はみんな嘘つき、などと断じるつもりは毛頭ない。そうではなくて、芸人が書いた本に単一の真実を求めること自体が無理ではないか、と言いたいのである。

たとえば東京の落語家はごく一部の例外を除いてどこかの団体に所属している。また、プロであれば師匠と仰ぐ対象があり、誰かの一門に入っているはずである。落語家は個人事業者だが、団体なり、一門なりを背負った存在でもある。逆に言えば、自らの属する団体や一門以外には、何も責を負う立場にはないということだ。何かを語り遺さなければならない謂れもない。ということは、芸人の発言は常に現在しか見ていない、見ていなくていいのである。それに対して芸界の外の人間が、客観的な事実を求めて芸人と会い、芸談や評伝を著そうとすることがある。安藤鶴夫が八代目桂文楽と接することで生まれた自伝『あばらかべっそん』、小島貞二が五代目古今亭志ん生の談話を聞き書きした『びんぼう自慢』などがそうである(ともに、現・ちくま文庫)。

しかし、それとて書き記されていることがすべて真実であるわけではない。たとえば『びんぼう自慢』の中で志ん生は、自らの師匠を偽っている。明治の名人であった四代目橘家圓喬の弟子を自称しているが、単に憧れの対象であっただけで、師弟関係はない。しかし、『びんぼう自慢』の中ではそれでいいのである。芸人本は芸人がそう語ったこと、そう語りたかったことを文字の形にして遺すものがからだ。五代目志ん生が「私の師匠は名人・圓喬だ」と主張したこと自体に意味がある。

この「芸人本書く派列伝」もその流儀に則って続けている。「本を書く」という行為によって芸人が何を主張し、どのように自分を見せようとするのか。さらに言えば、何を見せたがらなかったかのか、を観察することによってその芸人の人となりが見えてくるだろうと私は考えているのである。本欄で評論家による芸人論を一切取り扱わないのはそれが理由である。

2017年にもさまざまな本が出た。しかし、私がもっとも興味を惹かれたのは芸人本の範疇からだいぶ外れた一冊だった。『実録・国際プロレス』(辰巳出版)である。

これは「Gスピリッツ」という雑誌のインタビュー連載をまとめたものである(ただし、完全収録ではない)。かつて「週刊ゴング」というプロレス専門誌が存在した。「Gスピリッツ」の「G」は「ゴング」のGである。ゴング編集部の出身者が昭和のプロレスファンのために作っている、懐古趣味の横溢した雑誌なのだ。

急いで言葉を補っておくが、『実録・国際プロレス』という本を取り上げるからといって、プロレスラーを芸人と同一に見なしているわけではない。ただ、同じように個人事業者であり、団体や興行主に対して責を負う立場にありながら、観客を含むその他の人間からは隔絶した存在であり、閉じたコミュニティを形成しているという意味で、芸人とありようが似ているとは思っている。プロレスラーの著書を続けて読むと、ある出来事に関して相互に矛盾する記述を発見することが少なくない。あるレスラーがAが黒幕だと言えば、他の者はBだと言う。AとBのいずれが真実なのかは確かめるすべがないのだ。確言できるのは、レスラーそれぞれが自身の認識を真実だと信じているということだけなのである。プロレス界はそうした形で「正史」の成立を拒み、個々に独立した小宇宙のような価値観がいくつも並立している。もちろん、何が起きたかという事実関係を検証していくことは可能である。しかし最終的には、そうした客観性の確保が積み上げられない限界に行き当たる。それはなぜ起きたのか、なぜそのように語ったのか、といったプロレスラーの内面を外部の人間が窺い知ることは難しいからである。

2017年に話題になった、柳澤健『1984年のUWF』(文藝春秋)は毀誉褒貶が共にある。批判する声の中で多いのが、著者がUWFという団体の中心人物であった前田日明の功績を否定し、UWFという団体から早期に離脱した佐山聡にそれを与えようとしているというものである。私はそうした議論にはあまり関心がなくて、この本が主要な当事者の誰にも取材せずに成立したものであるにもかかわらず、あたかも佐山聡の意志を確認したかのような書きぶりになっている点に違和感を覚えている。著者は当時から現在までに刊行された文献には誠実に当たり、そこから読み取れるものを各登場人物に代弁させる形で記述を行っているのだ。

しかし「芸人本に書いていることはみんな嘘」と立川談之助が言ったのとほぼ同じ意味で「プロレスラー本」の記述を信用するわけにはいかない。現に『1984年のUWF』刊行後、当事者の一人である船木誠勝が同書の記述を知り、「それは間違いです」と発言している。柳澤が参考にしたのは船木自身の著書『船木誠勝の真実』(エンターブレイン)であるにもかかわらず、だ。プロレスラー本を部品として用いて歴史的記述を積み上げようとすれば、必ずこういうことが起きる。船木が自著の記述を否定したことまではさすがに柳澤の責としてはならないが、『1984年のUWF』が「文献の再構成」の域を出るものではなく、そこで汲み上げられたものも「正史」と呼ばれるべきではないということを読者各自は意識したほうがいいだろう。

そこで『実録・国際プロレス』である。

本書は、1966年に設立され(旗揚げは翌年)1981年に解散したプロレス団体の関係者23名のインタビューを収めた1冊である。インタビューは登場順(『Gスピリッツ』掲載順)ではない。まず選手とその他の関係者で前後半が分かれており、選手の場合は国際プロレスでのデビュー、あるいは初マット登場が早い順の並びになっている。それぞれ名前を挙げると、ストロング小林、マイティ井上、寺西勇、デビル紫、佐野浅太郎、アニマル浜口、鶴見五郎、大位山勝三、稲妻二郎、米村天心、将軍KYワカマツ、高杉正彦、マッハ隼人である。関係者は長谷川保夫(リングアナウンサー)、菊地孝(プロレス評論家)、石川雅清(元デイリースポーツ運動部記者)、森忠大(元TBSテレビプロデューサー)、茨城清志(元「プロレス&ボクシング」記者)、田中元和(元東京12チャンネルプロデューサー)、飯橋一敏(リングアナウンサー)、根本武彦(元営業部)、遠藤光男(レフェリー)、門馬忠雄(元東京スポーツ運動部記者)という面々だ。

当然ながら物故者からは談話がとれておらず、国際プロレスを支えた三人の言葉がここには入っていない。社長の吉原功、初期エースでありマッチメイカーも務めたグレート草津、中期から崩壊までエースとして団体を背負ったラッシャー木村の三人だ。さらに言えば、もし談話をとれるのであればヒロ・マツダもそこに加わるべきだった。ヒロ・マツダは力道山を嫌って日本プロレスを辞めて渡米し、フロリダマット界において地位を築いた日本人レスラーである。最初期の国際プロレスには彼をエースとして担ぐ計画があった。

簡単に国際プロレスの歴史についておさらいをしておきたい。前述の通り、団体の創立は1966年。初期は帰国したヒロ・マツダを中心とし、同じように日本プロレスを離脱したアントニオ猪木の東京プロレスと共闘を図っていた。しかしその両者と訣別したことで、吉原は独立して団体を経営していかざるをえなくなる。幸いなことにTBSでのレギュラー放送が決まり、日本プロレスから移籍してきたグレート草津を急造エースとして担ごうとするが、草津自身の未熟ゆえに失敗し、団体は再び舵取りが難しくなる。

吉原功は早稲田大学レスリング部の出身であり、TBSの放送を獲得できたのもその人脈がものを言ったのだった。力道山の日本プロレスは大相撲の文化・慣行を引き継いだが、国際プロレスはそれとは違う独自路線を行こうとする。それゆえにさまざまなアイデアが生まれたが、そのいくつかは時代に早すぎたこともあって失敗する。だが成功したものもあり、日本では初めてイギリス人レスラーのビル・ロビンソンをエースとして団体運営を行ったこともその一つだった。外国人エース路線でしばらく命脈をつないだ後、海外武者修行から帰国したマイティ井上、ラッシャー木村らが国際プロレスのエースとして活躍することになる。特にラッシャー木村は、これも国内初となる金網デスマッチに多く出場し、金網の鬼の異名をとって後期国際プロレスを支えていくのである。

国際プロレスは、新日本プロレス、全日本プロレスに対して遅れをとって興行的に先細っていき、1981年8月9日の北海道羅臼町民グラウンド大会をもって約15年の歴史に幕を下ろす。衰退の分析を行うのは本稿の主旨ではないが、本の多面的な記述の例を見てもらうために、グレート草津に関する各人の発言を拾ってみたい。

グレート草津は元日本代表になったこともあるラグビー選手であったが、1965年に日本プロレス入りし、翌66年にデビューを果たしている。しかし同団体の中では不遇であり、吉原功が国際プロレスを旗揚げすると移籍を果たす。旗揚げ時、他団体に対して国際プロレスの選手は知名度において大きく劣っていた。事実上のメインスポンサーとなったTBSはこの点を憂慮し、メディアの力を使って草津をエースに担ぎ上げようとするのである。そのために行ったのが、テレビ中継第一線での「鉄人」ルー・テーズの保持するTWWA選手権への挑戦であった。しかしこの一戦で草津はテーズのバックドロップによってKOされてしまい、三本勝負であったにもかかわらず二本目を棄権し、ストレート負けを喫する。

中継番組のプロデューサーを務めていた森忠大は、草津エース路線を決定したのは自分であることを認め、しかしTBSが横車を押して吉原から国際プロレスの代表権を奪ったという通説は否定している。それどころか森は吉原とは高校時代から同級生という親友の間柄であり、興行の決め手を欠く国際プロレスを救うためのてこ入れ策としてこの施策を実行したのである。森は草津が惨敗した理由を、当時の外国人レスラーのブッキングを任されていたグレート東郷の意志ではないかとほのめかしている。

「草津は胸板が薄くて、見栄えが良くない。それでいて練習嫌いで、酒が大好き。東郷はそれを観て、ダメだと早い段階で見抜いていた」(P499)

本書のインタビューに登場した人々がしばしば言及しているのが、この草津の「練習嫌いで、酒が大好き」という点である。

「あの人のいいところも悪いところも全部知っています。一番悪いところは、酒癖が悪いこと。飲むとワガママになって、人使いが荒くなるんだよね。朝方に酔った勢いで合宿所に来て、寝ている人間を叩き起こして引っ張りまわしたりとかメチャクチャですよ。俺も最後の方は草津さんとよく喧嘩したもん」(元付け人の米村天心。P290)

この酒癖の悪さについて口にする人も多い。

「すると夜中の2時頃、ドンドンと私の部屋を叩く人がいて、ドアを開けたら草津さんなんですよ。そこで“遠ちゃんのレフェリングはダメだ”とかワーワー始まったんです。自分も頭に来て、吉原社長を起こして“草津さんにそう言われたんで、もし自分が必要じゃなければ、今日で帰りますから”と言ったんですよ。そうしたら、吉原さんが怒ってね。草津さんを思いっきりぶっ飛ばしたんです。“この野郎、遠藤クンに代わるレフェリーを探してきてから、そういう話をしろ! 何もできないくせに生意気なことを言うな!”って。普段は紳士ですけど、吉原さんは怒ると怖い人でしたから」(レフェリー遠藤光男。P595)

草津はテーズ戦で絶対エースになり損ねた後も、タッグ戦線などでは第一線で活躍するのだが、吉原からはマッチメイカーの仕事も任されていた。国際プロレスの生え抜きではなく吉原と同じ日本プロレスからの移籍組ということで、社長への畏怖の念というよりは対等に近い感覚があったのではないだろうか。前出の森によれば、1967年の旗揚げ戦後、TBSがスポンサーについて活動を再開するまでの間、草津はアメフトへの転向を図っていたという。そういう意味では国際プロレス在籍の15年間も、彼にとっては仮住まいのような感覚があったのかもしれない。

「草津は、もう半分プロレスを辞めていたんだ。本人は休業と言っていたけど、ニュアンスとしてはアメフトに夢をかけている感じだったな。“TBSが付くし、またプロレスをやらないか?”と誘ったんだけど、草津は“社長は吉原さんですよね?”と言うわけ。“吉原さんに経営ができるんですか?”って」(森。P492)

「草津が亡くなった時に、俺はお通夜に行ったんだ。でも、その場にプロレスの写真は一枚もなかったよ。、ラグビーのボールとラグビー時代の写真だけ。(中略)ラグビーのお山の大将がそのまま日プロに入って、草津は最初からプロレスというものを馬鹿にしていたんじゃないのかな」(元東京スポーツ門馬忠雄。P610)

マッチメイカーはプロレス団体においては試合の取り組みを決めるだけではなく、興行全体を牛耳る現場責任者の役割である。草津がその地位にいることについて快く思わない選手、スタッフも少なくはなかったようだ。

「当時、マッチメーカーは草津さんで、あの人は小林さんと自分まで。どういうことかというと、それより下の選手をアメリカの大きいテリトリーへ出そうとしなかった。特に提携していたAWAにはね。理由は、自分よりビッグになられると困るからだよ。オファーがあっても、草津さんが握り潰していたんじゃないかな」(稲妻二郎。P251)

「そこで吉原社長が“みんなに話がある。自分は社長を辞めようと思う”と言い出したんです。こちらは寝耳に水ですよ。当然、“誰が社長になるんですか⁉”と聞いたら、“草津がなる”と言うんですよ。(中略)そこで、みんなが“ええっ! 草津さんですか⁉”となっちゃって。“お願いですから、草津さんを社長にするのだけはやめてください!”と全員で懇願したんですよ」(元営業部員・根本武彦。P586)

もちろん別の意見もある。国際プロレスでは草津とも親交があったというアニマル浜口だ。

「草津さんのことをよく言わない人も多いと思いますけど(苦笑)、ぼくは兄弟のような付き合いをさせていただきました。(中略)だから、心が通じていましたよ」(P150)

「その頃、“もっと練習してください”と、よく言っていたんですよ」(P164)

これらの声はどれが正しくてどれが間違っているというものではない。それぞれが各自にとっての真実なのである。そうした声の多様性を消さずにそのまま収め、対象となる人物や事象を立体的に描き出すことがインタビューでは最も重要である。アニマル浜口が肝胆照らし合う仲だったと語るグレート草津と、後輩の芽を潰していたと稲妻二郎が糾弾するグレート草津は並立してしかるべきなのだ。

『実録・国際プロレス』にはこのように、複数の証言によって一つの事柄の違う像が浮かび上がってくるという局面がいくつもある。それを無理に統合しようとせず、すべてを受け止めていけば、読者の脳内には「国際プロレス」についての豊かなイメージが形成されていくはずだ。こうした読書のありようこそ、実は芸人本に最も求められるものなのである。『実録・国際プロレス』のようなインタビュー本や芸人本において、「読む」という行為は受け身のものではなく、対象を自身の中で再構成するための積極的な行為となる。

以下は余談。『実録・国際プロレス』に関心を持っていただいた方は、ぜひ現在出ている「Gスピリッツ」46号の「1981年8月9日以降の国際プロレス」特集にも目を通していただきたい。本書で欠けているピースの一つであるラッシャー木村について、ご子息がその人となりを語っている。

ラッシャー木村は国際プロレスにおける「金網の鬼」時代の後、新日本プロレスで「はぐれ国際軍団」を形成、アントニオ猪木の敵として団体最大の憎まれ役を演じた。そして全日本プロレスに移籍し、ジャイアント馬場晩年」のファミリー路線になくてはならないバイプレイヤーとなる。前座試合におけるマイクパフォーマンスは、安定したエンターテインメントとして全日本の人気を支えたのである。そのマイクの飽きられない秘訣について、こんな風にご子息の木村浩氏は語っている。

――あのマイクパフォーマンスは本人的にはどうだったんですかね?

「あそこら辺の感覚は、家にいる親父の延長でしたね。親父はボソッと笑わせる人だったんDねす。ちょっとお酒を飲むとですけど(中略)あの人は即興なんですよ。あらかじめ喋る内容を考えていたわけではないです。全日本の最後の頃、親切心で三沢(光晴)さんが“木村さん、これが流行ってるから”とかネタになりそうなことを教えてくれていたみたいですけど、親父は“そうじゃないんだよなあ”と言ってましたね」

あの寄席芸人のような喋りは、巧まず己をさらけ出すことによって可能となっていたのだ。団体を渡り歩いた激動の人生をその背後に感じざるをえない。

スポンサーリンク

Share

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
スポンサーリンク