小説の問題vol.28 「やさしいことって難しい」佐藤多佳子『しゃべれどもしゃべれども』・山口雅也『続・垂里冴子のお見合いと推理』

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続・垂里冴子のお見合いと推理 (講談社文庫)

しゃべれどもしゃべれども (新潮文庫)

最近で最も興奮した出来事は、劇団水族館というところの公演を観に行ったことだった(注:2000年)。公演といっても、いわゆる小屋掛け芝居である。こういう演劇を観るのは、今は亡き渋谷ジァン・ジァンで寺山修司「毛皮のマリー」を観て以来だから、おそろしく久しぶりのことだった。

そんな演劇素人の私が言うのもなんだが、この「廃墟のディアスポラ」というお芝居はとてもおもしろかった。内容の難しいことは判らないが、舞台における水芸(としか言いようがない)や、回り舞台、吊りなどのケレンなどが素人でも楽しめる趣向である。定期的に公演をやっているようなので、お好きな方は情報誌などでチェックしてどうぞ。ただ、若者に混じって狭い座席で膝を抱えて観るというのは、正直ちょっと辛かったな。やはり芝居は幕間に弁当を使うくらいゆったりした方が落ち着いていていい。

それはさておき、今月の新刊書で私がいちばんおもしろいと感じたのは、山口雅也の『続・垂里冴子のお見合いと推理』である。「続」とついているからには「正」があるわけで、これは講談社ノベルスに入っている。別に「正」から読み始めなくても困ることはなくて、これは「小説すばる」(集英社)に掲載された連作集なので、どこからでも読み始めることができる本である。休みの日にちょっと寝転んで、なんて時には最適。もちろん晩酌にウィスキー片手、というのでもいいです。読むのにあたって、変な理屈が必要ないところもまた好ましい。「おもしろいものはおもしろい」のである。

唐突ながら、世の中の森羅万象には「やさしいこと」と「難しいこと」とがあって、それを「やさしく言う」と「難しく言う」の二通りの方法が選べるようになっている。つまり二掛ける二の四通り。

この中でいちばん難しいのは、実は「やさしいことをやさしく言う」ことである。逆に、いちばん簡単なのは「やさしいことを難しく言う」ことで、これは自分がわかっていないからややこしくなってしまっているだけ。次が「難しいことを難しく言う」ことで、傍目から見ると難しいようだが、よく考えてみれば、やさしい言葉に噛み砕く努力をしていない分、説明する側は楽をしているのである。学者の文章が典型的な例。

後に残った二つのうち、「難しいことをやさしく言う」のと「やさしいことをやさしく言う」ので、後者の方が上なのはおかしい、と思う人もいるでしょう。しかしこれはよく考えればわかることであって、例えば「マルクス主義」と「豆腐」とどちらが説明しにくいものか、ト言えば圧倒的に後者なのである。マルクス主義が弊れた理由というのは、この十年でいろいろな人が、それこそ寄ってたかって説明してくれたが、いまだかつて豆腐がどうしておいしいのか、完全な説明をしてくれた人を見たことがない。ただ「うまいものはうまい」のだ。

よくワイン通といわれる人たちが、ワインの味を評して「農家の納屋にある麦藁のように乾いた」などと言っているのを聞くが、あれでどうしてワインをおいしいと感じられるのか、私にはちっともわからないのである。その点、獅子文六は偉かった。なにしろ何を食べても「ウマい」の一言ですませてしまうのだから。しかしそれだけで読者に、なるほどそんなに「ウマい」のか、と納得させてしまうのが文章の力というものだろう。さらりと書いて、なおかつわかりやすい。

「垂里冴子」のお話に戻ると、この小説の主人公は垂里家の長女・冴子である。彼女は読書が趣味で、眼鏡をかけて本ばかり読んでいる。平装が和装で、黄八丈なんかよく似合うあたりからして、今どきの人間ではないのだが、なぜかどんな縁談が来ても破談になってしまうという特技(?)の持ち主なのである。それも彼女に非があるのではなくて、日を定めてお見合いということになると、必ずそこで事件が発生して、縁談どころではなくなってしまうのだ。例えば冴子の妹・空美が温泉宿の外湯で死体を発見してしまったり(『湯煙のごとき事件』)、弟の京一が七福神連続盗難事件なんて厄介な件に巻き込まれたり(『動く七福神』)。その度に冴子が快刀乱麻の推理を下して事件は解決するものの……相変わらず彼女自身の縁談は未解決のままなのだ。ここの呼吸がいいね。

冴子の将来を思んばかる垂里家の人々がみな善意の常識人であるのに、一人だけトラブルメーカーの空美がいるのもおかしい。家出したかと思うと突如ナオミ・キャンベルみたいなスーパーモデルになると言って帰って来る、なんて無軌道ぶりが誇張されていて、いかにも笑えるところである。それと対照的にいい子の弟・京一(冴子にやや近親相姦的な思慕を抱いているふしがある)が右往左往して憤慨したり、呆れ返ったり、という展開は必ず笑いを誘うだろう。

そういった笑いのオブラートにくるんでやや苦いものを呑ませてくるのも、隠し味として効果的である。「靴男と象の靴」なんて短篇は、よくよく考えるとかなり悲惨な人間関係の話なのだが、作者の処理の仕方がうまいので、悲愴な色合いは適度に薄められている。変に力むことなく、あっさりと悲喜劇のこもごもを描いてみせるのは小説巧者のゆえんだろう。山口の代表作は今のところ大作『生ける屍の死』(創元推理文庫)か、日本推理小説協会賞を受賞した『日本殺人事件』だろうが、「やさしいことをやさしく言う」という技巧の冴えが光る本書も、なかなかの出来であると思うのだ。

さて、「やさしいことをやさしく言う」ことの難しさは、佐藤多佳子『しゃべれども、しゃべれども』を読んでもよくわかるだろう。これは、九七年に「本の雑誌」が選ぶ年間ベスト1にも選ばれた小説であり、驚くほどに正攻法のやり方で人と人との関係を描く好篇である。

主人公の俺こと今昔亭三つ葉は、現在二ツ目の落語家である(ご存知ない方のために書いておくと、二つ目というのは前座以上真打以下。相撲で言えば幕下のような地位である)。それも、時代遅れなほどに古典落語が好きで、落語家であることに十分すぎるほどの誇りを持っている落語家。「俺は古典しかしゃべらないと決めている。熊さん、八つぁん、与太郎、ご隠居、若旦那、赤井御門守に糊屋のばばあまで好きで好きで、この世界に頭からどんぶり飛び込んだのだ」というから、かなりこだわっている。

余談ながら、立川談志『談志楽屋噺』(文春文庫)を読むと、こういった芸人がいっぱい出てくる。それも世の中との折り合いがつかずに不遇のまま終わった芸人たちばっかりだ。世間がうつろい行く以上それとともに自分も変わった方が生きやすいのは明らかなのに、それができないがためにいつまでも楽屋の隅でうろうろしている芸人。談志の言葉を借りれば、「世の中に自分を照れまくって暮らして」いる。要は「生きる」という世の中でいちばんやさしいことが下手なのである。これはかなり重症だ。

(初出:「問題小説」2000年7月号)

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