小説の問題vol.47「おそるべき無駄、無駄、無だ」殊能将之『鏡の中は日曜日』/ 旧:土屋賢二『哲学者かく笑えり』

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鏡の中は日曜日 (講談社文庫)

哲学者かく笑えり (講談社文庫)

先日、『森博嗣のミステリィ工作室』(講談社文庫)という本に解説を寄稿したところ、森氏に後書きで献辞を頂いた。

しかしその献辞が気になる。

本書の前半部でご協力を得た杉江松恋氏からは今回の文庫化にあたって新しい文章をいただいた。底力を感じさせる人である。重ねて感謝したい。

「底力を感じさせる」。なんかいい響きの褒め言葉だ。手放しの賛辞ほどくすぐったくないところがいい。いや、もちろん手放しの賛辞も、もちろん嬉しいし、本当は、手放しの賛辞を贈ってくれても別にくすぐったくなりはしないのである。水虫でもあるまいし。

しかし、よく考えると、これは本当に褒め言葉なのだろうか。「底力」=「普段は見せない力」を、「感じさせる」=「実際には発揮していないにも関わらず存在だけをほのめかす」というのは、ひらたく言うと、「手ェ抜きやがったな、あぁ?」ということではないのだろうか。……しばらく夜道には気をつけよう。

と、まあ、以上は冗談だが(一部本気)、なんでこんな屁理屈をこね回したくなったかというと、土屋賢二『哲学者かく笑えり』を読んだからだ。この本は先の『森博嗣のミステリィ工作室』と同時に文庫化されたのだが、実は両作者の間にはいくつかの共通点がある。

  • 男性である。
  • 国家公務員である(大学教師だから)。
  • 「東京かわら版」を購読していない。

……あといくつかあるが、このくらいにしておこう。ちなみに「東京かわら版」とは、東京の演芸情報しか載っていないどマイナーな情報誌である。バトルロイヤル風間という人が、世にもつまらない四コマ漫画を連載しているが、誰も咎めないところを見ると、おそらく誰も読んでいないのだろうと思う。ちなみに、森本には森博嗣自身が書いた漫画が収録されており、これはなかなかおもしろい。土屋本(源氏物語の写本みたいだ)の方には、いしいひさいちの書いた漫画が載っていて、これはさらにおもしろい。これも、両者の共通点といえるか。

さて、肝腎の『哲学者かく笑えり』だ。もし、ユーモアエッセイというものを読んだことがない方があれば、この本を読んだ方がいい。土屋は先に書いたように某国立大学に奉職する研究者だが、そしてそういう人がユーモラスな書物を著す伝統があるのが西欧文学の伝統なのだが、まあそんな知識はどうでもいい。

本書は何か実用的な知識を得たいとか、読書をすることによって自分を向上させようとか、そういう不純な目的で読書をする人にはまったく不向きな本である。

本書では「所有の概念」「健康法の原理」といった命題が、絶対に試験には不向きな形で検討されているし、「言い訳の形而上学」「効果的な無駄の作り方」といった考察は、それ自体が「言い訳」であり「無駄」そのものとしか思えない。また、「働く女性の意識調査」のようなやり方でレポートを書いたなら、あなたの指導教官は確実にD評価をくれるはずである(もし、その教官が女性だったら、ビンタがおまけについてくるだろう)。

にも関わらず、細部のレトリックだけはしっかりしているから嫌になってしまう。例えば「スポーツは有害である」というエッセイにおける一例。まず、土屋は、「スポーツは身体に悪い」という理屈をこね始める。なぜならば、「スポーツをしなくても、身体というものは悪くなるが、スポーツは悪くなった身体をさらに悪くする」からだ。その証拠に、「病人(とくに危篤の人)」はスポーツをしてはいけない(あたりまえだ)。さらに。

たしかに、スイミングクラブにいくと老人が元気に泳いでいるのは事実である。しかしこれは、どんな若々しい人でも、何年も泳いでいると老人になってしまうからである。かれらは若く見えても七十歳になっていたりする。水泳を長年続けたために七十歳になってしまったのだ。

しかも。

その人たちもいつかスイミングクラブに来なくなる日がくる。来なくなる原因は、ずっと来ていたことにある。はじめから来ていなかったら「来なくなる」ことはありえないのだ。

どうでしょう? 磨き抜かれた知性が怖いのは、このような過剰なまでのナンセンスを創造してしまうからである。もちろんこれは知性の顕現だから、そういう敬虔な気持ちで本書に当たってもいい。だが大概の人は本書に「いい大人が何やってんの」という感想を抱くはずである。土屋もそう思ってもらえば本望だろう。

もし本書が気に入ったら、海外のユーモア・エッセイストで、ウディ・アレン、アート・バックウォルド、コリン・フォード、といった人たちの著作に当たってみるといいと思う。先に上げた森博嗣や故・内田百閒の文章などもよい。

さて、読書とは大いなる無駄にすぎない、というのが今回のテーマだが、その強力な傍証として殊能将之『鏡の中の日曜日』を上げておきたい。

ごく一部の層を除き、殊能将之という名前はまだ一般的ではないはずだから、説明しておく。殊能は『ハサミ男』という長編ミステリーによって、講談社主催のメフィスト賞という新人賞を受賞し、デビューした作家で、まだ「新人」とか「俊英」とか呼ばれる部類に入る。だが、たかが「新人」と侮ってはいけない。

今のところ殊能の著作は、『ハサミ男』の他に、石動戯作という名探偵(そう名刺に書いてある)を主人公にした長編が三本あるだけだ。『美濃牛』『黒い仏』そして今回の『鏡の中は日曜日』である(以上すべて講談社ノベルス)。

この連作がどれも曲者で、最初の『美濃牛』からしてまず油断できない。「ミノタウロス」を連想させる題名なのをいいことに、全編これ牛のモチーフだらけ。しかもそれが横溝正史世界の換骨奪胎作品になっているという、奇怪な構造の小説であった。

しかも、横溝正史というとミステリーファンの誰もが普通注目するような部分(『本陣殺人事件』のトリックだとか、『獄門島』の犯人であるとか)に、殊能はまったく顧みない。『美濃牛』で殊能の筆が快調なのは、『八つ墓村』を思わせる後半の山狩りシーンである。

「横溝正史といえばさあ、山に逃げ込んだ犯人を追っての山狩りじゃん?」

……。いや、殊能がそう言ったというわけではなく、あくまでこれは私の想像上の発言に過ぎないのだが、そういう、重苦しいテーマであるとか、中身に対するこだわりが殊能には皆無であると感じるのだ。よくある謂に、「新しい酒は新しい皮袋に」という言い方があるが、そのまったく真逆であろう。「バッグをバーキンに替えたから、中の小物なんかも入れ替えなくちゃ」というのが、現代の気分であるということを、殊能は敏感に感じとっている作家だと思う(別に殊能がおネエ言葉だということでもないですよ。念のため)。

第四作の『黒い仏』は、その精神の最たるもので「何何かと思っていたら、実はまったく違っていた」という「手術台の上でコーモリ傘とミシンが出会った」ような驚きがもっとも強く体験される小説である。故・古今亭志ん朝の『火焔太鼓』ではないが、「吃驚して座りしょんべんして馬鹿になるなよ」と、読者には言っておきたい。いや、本当に。

本書は、そんな殊能の第四作目にあたる作品だ。器に用いられているのは、「新本格ミステリー」である。これもご存じない方のために書いておくと、「新本格ミステリー」とは、「本格ミステリー」の古典の薫陶を受けて育った世代のファンライターたちが、「本格ミステリー」の意匠を尊重する形で確立したジャンルである。したがって、「古い精神」を「古い器」に盛ることが、「新本格」にとっての重要事だったといえる(だから逆説的に『新』本格なのだが)。

殊能は本書で、その「古い精神」を流しに捨て、「古い器」だけあれば「本格」は書けるよ、とうそぶいている。おのれの母胎である「本格ミステリー」の世界を一旦完全な無に帰すこと。それが本書のテーマだろう。その後に残っているものは「無」のみだ。読み終わり、広大な空を体験したな、と思う小説である。

(初出:「問題小説」2002年2月号)

森博嗣のミステリィ工作室 (講談社文庫)

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